投稿者:上原幸則

 5月27日は、117年前に日本海海戦のあった日。鹿児島出身の東郷平八郎(1848~1934)を祭神にしている福津市渡の東郷神社で例祭があると聞いて出かけた。東郷は、薩摩藩の武士で生麦事件を機にイギリスが攻めてきた薩英戦争(1863)が初陣、焼け野原となった城下町を見て「海から来る敵は海で防ぐべし」と海軍を志した。明治維新後、イギリスに7年間留学、国際法を学んだ。日清戦争時は巡洋艦の艦長で国際法に沿い、清国兵を乗せたイギリス商船を攻撃している。舞鶴鎮守府長官になっていたが、日露戦争を前に明治36年(1903)、「運のいい男」として、連合艦隊の司令長官に抜擢された。
 明治38年(1905)5月27日、連合艦隊が当時最強と言われたロシアのバルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦は「対馬沖海戦」とも呼ばれている。秋山真之参謀は五島列島にいた哨戒艦からの無電で、宗像市沖の沖ノ島西方でバルチック艦隊とまみえると計算していた。
 伝えによると、海戦の様子は沖ノ島からは見えた。陸側では、福津市の大峰山(標高114㍍、現在の東郷神社の上)に安部正弘さん(当時18歳)が登ってみたが、黒煙が上がり、砲撃の音が聞こえただけという。
 海戦では、連合艦隊が突き進んでくるバルチック艦隊の前で次々に回頭して、砲撃を加えた「東郷ターン」が知られている。バルチック艦隊は壊滅、日本海海戦はトラファルガーの海戦、レパントの海戦ともに世界三大海戦の一つとなった。
 後に獣医師となった安部さんは、東郷の活躍を知るにつれ、いたく尊敬するようになった。東郷が亡くなった翌年の昭和10年(1935)、偉業を後生に伝えるため神社を創建した。おみくじは、東郷が英語も得意だったことにちなみ、表は日本語、裏が英語となっている。国民の寄付金などで建てられた東京都渋谷区神宮前の東郷神社は昭和15年の創建だ。
 例祭は88回目、日本海海戦紀念碑前であり、福岡南州会員、協賛団体員、ボランティアらが参列。安部さんの孫の川野万里子宮司の祝詞の後、玉串を捧げて日露双方の戦死者約5000人を慰霊した。この日は快晴。約60キロ離れた沖ノ島も見えた。波も静かで117年前の激戦を想像するのは難しかったが、祖父は当時、満州で歩兵としてロシア陸軍と戦っていた。バルチック艦隊が残っていたら、日本から満州への補給が困難となり、祖父たちは孤立して、帰還出来なかったかも知れない。
 現在、国際法を踏みにじったロシアの侵攻で、ウクライナでは多くの人たちが人生を狂わされている。東郷が乗っていた旗艦「三笠」を模して山頂に設置されたコンクリートの大砲はロシア方面に向いており、暴挙をかたく戒めているように見えた。(6月7日)