投稿者: 上原 幸則

 広島、長崎、お盆、戦没者追悼式、東京勢を破って沖縄尚学優勝、線状降水帯による大雨で九州各地に被害。8月は酷暑のなか、人それぞれに来しかた行く末を思う月だった。今年は戦後80年、従軍、引き揚げ、抑留、被爆。戦争の悲惨さが新聞、テレビで例年以上に取り上げられていた。個人の体験を元に戦争を問い直す記事が目立った。
 鹿児島県の悪石島周辺は地震が2ヶ月以上続いている。鹿児島市に避難していた住民は島に戻ってはいるが、落ち着かないことだろう。
 その悪石島近くで1944年(昭和19年)8月22日に起きた疎開船「対馬丸」の悲劇。同船は沖縄から疎開の児童らを乗せて長崎に向かう途中、米潜水艦の魚雷攻撃で沈められた。犠牲者1484人のうち、約半数の784人が児童。引率者として対馬丸に乗っていて、子どもたちを助けられず、自責の念を抱えて戦後を生きた女性教員がいた。女性教員は、「自分ばかりが助かって 」と、結婚後も古里の沖縄に住むことは出来なかった。戦争は、生き残った人をも終生苦しめるものだ。女性の長女が母の足跡を追い、平和への想いを語り継ぐ著書「蕾のままに散りゆけり」を出している。
 今年も8月22日には、那覇市で営まれた慰霊祭に生存者や遺族ら300人が参列して、犠牲者の冥福を祈った。 
 悪石島より薩摩半島に近い黒島では、陸軍の知覧基地から飛び立った特攻機が度々不時着。負傷した搭乗員のため、別の隊員が知覧まで戻り、再出撃して薬と菓子などを島に落として南方に飛んで行ったいう出来事があり、ドキュメンタリーや本になった。島では慰霊祭が行われてきたが、隊員を本土まで舟で送った島の人は、隊員の戦死を聞いて「搬送したばっかりに」と悔やんでいたという。
 日本三大砂丘の一つで全長約47キロの吹上浜(いちき串木野、日置、南さつま市)。浜に立つと、障害物は無く海からの上陸には最適の地と分かる。終戦間際には、米軍が、この浜に上陸して宮崎方面に侵攻する「オリンピック作戦」があったと記録が残っている。私のおじは、現役を退いていたが、再召集されて吹上浜で穴を掘っていたと生前、話していた。スコップは十分に無く、食料も乏しく暑さで疲労した兵も多かった。穴は爆弾を持ってひそみ、戦車を迎え撃つためだったと伝え聞いている。
 九州で空襲の一番激しかったのは鹿児島で、吹上浜上陸の前に打撃を与える狙いだったとみられる。作戦の決行は1945年(昭和20年)11月1日の予定で終戦がもう少し遅れていたら、吹上浜一帯が沖縄に続き、戦場になっていた。
 戦後80年、原爆、戦争について語ってくれる人がまだいる。しかし、多くの国民のなかでは戦争の記憶は薄れつつある。「8月の新聞は、高校野球と戦争特集でいっぱいだ」と言う声もあるが、史実としての戦争から現在起きている戦争への関心を高め、時代へ伝えていくためにも新聞の役割は大きい。(9月1日)