投稿者: 上原 幸則

 鉄筋がむき出しになった校舎の上に残った拡声機。すさまじい津波の威力で曲がっている。裏山の方角を向いており「裏山へ早く逃げて」と呼びかけているように見える。
 東日本大震災が起きた2011年3月11日は、新聞社では第一線から離れており、震災報道に携わることはなかった。大震災から15年。後期高齢者となり、「体が動く今のうちに」と思い立って4月12日、宮城県石巻市釜谷の震災遺構大川小学校を訪ねた。この日は風が強く、メモ帳は吹き飛ばされそうだった。
 小学校は1985年開校、地元に縁のあった建築家が設計、丸みを帯びたモダンな造り。26年後に津波が押し寄せ、コンクリート製の巨大な柱や渡り廊下はなぎ倒された。体育館倉庫と見られる所には、1年、2年と書かれた立て札が残っていた。
 記録によると、3月11日午後2時46分、地震が発生。午後2時52分ごろ、大津波警報。午後3時37分ごろ、小学校に津波が到達。避難が遅れたことで、全校児童108人の内、74人と教職員10人が犠牲となった。
 遺族が起こした責任・賠償訴訟で、避難経路の確定や指示決定の遅れが起因するとして、裁判所は自治体の責任を認め、遺族の勝訴が確定した。
 敷地に立ってみると、海までの距離3.7キロで、海は見えない。「今ここにいて、津波警報が発令されたらどうするか」。避難先を確認すると、少し落ちついた。
 小学校の隣には伝承館がある。裁判の経過や被災当日とその後を伝える新聞が展示されている。ビデオなどの映像はなく、活字を追っていると、一連の出来事をよく理解できる。亡くなった児童たちのランドセルが並ぶ写真の前では、胸が詰まり、頭を垂れる。
 小学校の野外ステージの壁画には校歌「未来を拓く」の文字が修復されてあった。半日の滞在だったが、大川伝承の会の活動をみると、遺構を悲劇の場所とせずに、「ここに子どもたちがいて学んでいた。命があった」。その命を未来にという想いが伝わってきた。
 翌々日、気仙沼市の震災遺構「命のらせん階段(旧阿部家住宅)」にも行った。湾のそばにある遺構は観光・水産業の創業者(故人)の家。周りは平地、高台まで遠い。案内板などによると、1960年のチリ地震の津波を教訓に、東日本大震災の5年前に鉄骨3階建ての建物の外に住民の避難を目的に階段を設け、訓練も行っていた。3月11日は約5メートルの津波が押しよせたが、住民約30人が階段を駆け上がり無事だった。建物のあちこちに津波で破られたところがある。備えと訓練、行動することの重要さが分かる遺構だ。
 遺構は、直接語りかけるモノではない。それでも、そこに立ち、見ていると、大震災のすさまじさが伝わってきて緊張感がはしる。大川小は遺族や地元の人たちの熱意で、保存されている。最近、劣化も進んでいるという。永久保存して後世に教訓を伝え続けてほしい。(4月21日)