投稿者:上原 幸則
高校からの友人、阿世知幸男君が2月17日に亡くなった。元NHKアナウンサー。73歳。鹿児島県立甲南高校3年8組、文系男子普通クラスで一緒。1968(昭和43)年、米軍佐世保基地に原子力空母が寄港、大学生と機動隊が衝突した時「授業を受けていていいのか。佐世保に行こう」と演説を始める者もいた。担任は柔道有段のコワモテ。「お前たちは何を考えているのだ。お前たちが入れる大学は無い」とよく言われた。阿世知君は、怒声を発する担任のもの真似が得意で、みんなを笑わせていた。同級生たちは発憤、九大、東京教育大、熊大、鹿大、福教大、早稲田、慶応、関西外大などに。独自に理科系を勉強して医学部に入り医者になった猛者もいる。
阿世知君は西南学院大学からNHKに入局。鹿児島は、薩摩藩が幕府の隠密を警戒して広まっていた難解な方言が残り、抑揚も独特。ちなみに「貝を買いに来い」は「ケ、ケ、ケ」。モールス信号みたいだ。全国放送で共通語を大事にするNHKのアナウンサーになったと聞いて同級生たちは、びっくりした。初任地は室蘭。宿直明けには6時前にラジオの天気予報があり、ランニングシャツ姿でマイクに向かい思わず「こんな格好ですみません」。
沖縄時代は、本土返還から6年後の1978年(昭和53年)7月30日、車の通行が本土と同じ左側となり、那覇市の国際通りで戸惑う人たちの様子をテレビでリポートした。沖縄の歴史に関心を持ち、離れた後も伝統芸能・工芸を守る人たちと交流を続けてきた。
仙台を経て東京アナウンス室へ。1986(昭和61)年、夜のテレビ番組「スポーツとニュース」のキャスターに抜擢され、全国区の顔に。ゲストの西武ライオンズのルーキー、清原和博選手に「わたしの顔を知っていますか」と聴くと「知りません」。ちょっとがっかりした様子だった。
ニュース番組の他、紅白歌合戦の総合司会を努めた武田真一アナウンサーは告別式で「わたしは阿世知さんの一番弟子を任じている。東京での新人時代、アナウンサーはジャーナリストであれ、と熱く言われた」と述べた。ニュース原稿を冷静に読むのが鉄則だろうが、それだけでなく、物事の本質に迫るよう努めよということだろうか。
武田アナウンサーは2016年(平成28年)4月の熊本大地震では古里に思いを寄せ、番組で「被災地のみなさん、古里を思っているみなさん、力を合わせてこの災害を乗り越えましょう」と語りかけた。寄り添い励ます言葉は被災者の心に届いた。阿世知君の教えが生きた気がした。
退職後は福岡市に住み、1年10か月前、病で入院、声が出せなくなった。奥様によると「声を発するのを業としてきたので、辛かったと思うが、いつも大丈夫だよと語りかけてきているようだった」。元気な頃は、博多祇園山笠大黒流れ一筋。山を舁くため、一年中鍛えていた。棺の顔は引き締まったままで、長法被(ながはっぴ)がかけられていた。 (3月3日)