投稿者: 上原 幸則

 166万都市となった福岡市の礎を築いた福岡藩初代藩主の黒田長政。1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原の戦いで、武功をあげ、徳川家康から52万石を拝領したと聞いてはいるが、具体的にどんな手柄か、絵図を見ても、すっきりしない。福岡ペン倶楽部の講演で、歴史作家の加来耕三さんが「疑問に思ったらまず、調べてみる」と語られたことを思い出し、先月、現地(岐阜県不破郡関ヶ原町)に行って、地形を見た。
 JR東海道線・関ヶ原駅から歩いて約30分。落ちた竹の葉がびっしりの竹林を登ると標高164メートルの岡山(丸山)烽火場に着いた。決戦場を眼下に見て、遠くに小早川秀秋が布陣していた松尾山、西側に西軍の石田三成がいた笹尾山が見える。東軍最右翼の岡山に長政は竹中重門(地元の武将)と約5000人で陣を敷き、15日朝、戦機を見て開戦の烽火をあげた。その後、石田三成軍とぶつかり苦戦したが側面からの攻撃で打ち破った。関ヶ原の地形を良く研究していたのだろう。
 石田軍の近くには薩摩の島津義弘が約1000人で布陣していた。昼に東軍が優勢となり戦いの帰趨が明らかになると、正面の徳川軍に襲いかかり、敵中突破を行った。軍勢は約80人に減り山越えなど苦難の末、薩摩に戻った。
 鹿児島県では、日置市の子どもを中心に1960年(昭和35年)から夏休みに、島津軍の退路を関ヶ原から、鹿児島までをたどる行事がある。島津義弘陣跡の横の石碑には、歴代参加者の名前が刻まれていた。私の高校時代は、鹿児島市から義弘をまつる神社まで約20キロを歩く妙円寺参りがあった。「時代がかったことを」と思っていたが、今は懐かしい。
 義弘の甥、島津豊久は捨て身の戦いで討ち死にした。関ヶ原に近い大垣市に塚があり、約150年後、宝暦治水木曽三川工事に派遣された薩摩藩士も訪れたと、伝えられている。
 宝暦治水(1754~1755年)は、江戸幕府の命令で薩摩藩が行った木曽・長良・揖斐川の大水害を防ぐための工事。家老の平田靭負以下約1000人が従事。約80人が亡くなり、藩財政を逼迫させた責任をとり、靭負は自刃した。治水は美濃・伊勢・尾張三国の三百余の村々に恩恵をもたらした。
 関ヶ原から東海道線、養老鉄道と乗り継いで靭負や藩士をまつる治水神社(同県海津市)に参った。石碑に殉職者の名が刻まれ、人力だけで過酷な治水に挑む像があり、難工事がしのばれた。横を流れる長良川は幅約500メートル、豊かな水量に圧倒され、立ちすくんだ。現代でも工事となったら相当大がかりとなりそうだ。靭負は幕府の命令に反対する藩士を「国は違っても、民のためになる」と説得したと伝えられる。
 藩士23人の墓がある海蔵寺(三重県桑名市)では靭負の命日の5月25日、272年忌追悼供養大法要があった。住職によると、市民ら80人が参列して「後世に残る偉業」としのんだ。桑名藩は譜代、薩摩は外様。藩の垣根を越え義士として敬ってきた地元の人たちに頭が下がる。歴史は現地に行くと、理解が深まる。(6月4日)