投稿者:岸本 隆三

 8日(日曜日)、雨の中、宮崎市から鹿児島県伊佐市大口を経て、熊本県水俣市のエコパークを訪れた。チッソが水俣湾に排出した水銀の混じったヘドロをしゅんせつして同湾奥の海面58haを埋め立てた土地。陸上競技場などもある広大な公園だ。一角には「道の駅 みなまた」もあり、特産品などを販売、近くを通る時は、昨年も鹿児島県出水市経由で、寄っている。今回はパークに隣接する「学びの丘」にある水俣病資料館を訪ねるためだ。資料館には25、6年前に訪れているが、現地で、現場で、水俣病が1956年5月1日、公式確認されてから、1968年9月、政府が水俣病を公害と認定するまでを考え、確認したいと思った。
 と言うのも「家庭教師のトライ」の運営会社(東京)が会員向けオンライン教材で「水俣病は遺伝する」との誤った情報を配信、熊本県宇城市が2月に配布したカレンダーに「水俣病は感染症だ」との誤情報の記載があった(いずれも読売新聞による)との報道に触れたから。前者は教育関係であり、後者は近くの自治体だけに、よけいにショックだ。
 公式確認前から水俣病の症状で亡くなった人は少なくなく、確認後もすぐには原因が分からず、奇病、伝染病と噂され、偏見と差別に苦しんだ歴史がある。
 今は「水俣病は、チッソ水俣工場の廃水に含まれたメチル水銀が原因で起きる中毒性脳神経疾患。妊婦の胎盤を通じて水銀を取り込んだ胎児性患者はいるが、遺伝する病気ではない」(読売新聞)とされ、もちろん感染症でもない。水俣病の原因究明は偏見、差別の克服でもあった。すべてが克服されたとは思わないが、それらに水を差すものであり、新たな偏見、差別を生まないとは限らないことが恐ろしい。
 原因究明の歴史をいつ見返してもチッソはひどい、許せないと思ってしまう。そして、当時の通産省、厚生省など政府も。「水俣病小史 増補版」(高峰武編 熊本日日新聞社)などを参考に復習したい。
 1957年3月、水俣保健所長がネコに水俣湾の魚介類を与えて発症させたが、何ら手は打たれなかった。アセトアルデヒド製造工程の百間排水口からの排水が疑われたが、チッソは否定。それどころか、排水口を一時、水俣川に変更、結果的に水俣病を不知火海に広げたとされる。
 こうした中、1959年7月、熊本大研究班は水俣湾底の泥の水銀調査などから「有機水銀説」を発表、水銀はチッソからのものとした(メチル水銀とするにはまだ、3年かかった)。同年10月には細川・チッソ付属病院長がアセトアルデヒド廃水を与えたネコが発症。しかし工場長は結果の公表と実験継続を禁止する。11月の不知火海沿岸漁民が工場の操業中止を求めて警察隊と衝突を挟んで、同月、熊本大は政府に「水俣病の原因は有機水銀中毒」と報告するも通算、厚生両省は受け入れない。
 チッソは(水銀を除去しない)排水浄化装置を設置して排水は続く。さらに12月には水俣病患者家庭互助会との間で「将来、原因が工場排水と決定しても新たな補償要求は一切しない」との条項を入れた見舞金契約を結ぶ。死亡者に一律30万円の弔慰金など、当時でも極端に低いと言われた。
 1960年になると、チッソは「使用しているのは無機水銀」と有機水銀説を否定、さらに東京工業大教授から「アミン説」が出されるなどした。1962年8月、熊本大医学部教授が水俣工場内での水銀の有機化を証明する。教授は工場から入手した水銀かすから塩化メチル水銀の抽出に成功、アセトアルデヒド製造工程で触媒として使われていた無機水銀が有機化し、排出されていることを証明、翌年熊本大研究班も「原因物質はメチル水銀化合物」と発表した。
 それでもチッソがアセトアルデヒドの製造を中止するのは、新潟水俣病の発生の公表(1965年)を経て、実に1968年5月(政府の公害認定は同年9月)。
 公式確認から12年、熊本大の有機水銀説、工場内のネコ実験発症から9年、メチル水銀化合物と公表からでも5年。排水を止める機会は何度もあっただろうと怒りを新たにし、そしてチッソも政府は罪深いと改めて感じる。
 歴史を忘れず、怒りも忘れなければ、誤情報は出て来ない。
 駐車場から「学びの丘」までを歩いて上り、前庭からは雨に煙った不知火海を眺めて手前にある国立水俣病情報センターから入った。水俣市立水俣病資料館と繋がっており、いずれも無料だ。センターは世界的な水銀汚染などの展示、資料館はビデオでも歴史を振り返り、高度成長時代のチッソの生産活動など背景説明もあって多角的に水俣病をとらえようとしている。しかし、怒りが薄くなっているとの印象を受けた。もっと怒りを!と思う。(6月16日)