投稿者:岸本 隆三

 長嶋が死んだ。
 ビックリした。病院に入院中で、高齢でもあり、受け入れる気持ちもあった。しかし脳梗塞で倒れてから驚異的な回復をしただけにどこか不死身でまだまだ亡くならないと思っていた。大ショックだ。数千万人が悲しんでいると思う。私もその1人である。野球を、スポーツを、いや戦後を、昭和を象徴する人だ。ちょうど「戦後80年、昭和100年」の年に亡くなった。合わせなくてもいいのになー。しかし時代を代表する人は時代が合わせてくるのかもしれない。
 長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督(89)が3日早朝、都内の病院で死去したとのニュース速報が同日午前9時前に流れた。私はNHKのBSを見ていた。当然と言えば当然なのだが、NHKは9時のニュースで、民放はニュースショウで早速、伝えている。早朝から降っている雨は涙雨だったのか。
 今、午前11時前。これから怒涛のごとく媒体を問わず、長嶋のニュースが流れるだろう。明日早朝には購読している読売新聞、スポーツ報知以外の新聞、スポーツ新聞を買いに行かなければ。それだけに一ファンに過ぎない私ごときが追悼原稿を書くことはないと思うのだが、ファンだからこそ書き残して起きたい。大谷選手が出場するドジャースの中継を横にして取り組んでいる。
 大谷選手が出たついでに、大谷選手の人気は絶大だ。日本にとどまらないのがすごい。読売新聞が行った世論調査で好きなスポーツ選手は581件の大谷選手が断トツのトップで2位のボクシングの井上尚弥が73件だった(5月26日読売新聞)。しかし長嶋全盛の時代、資料がないのだが芸能界なども入った人気ランキングのトップは長嶋氏だったように記憶している。もちろん国内だが、今の大谷選手の比ではなかったと思い出す(思い込みかもしれないが)。
 記録を見れば、もちろん一流であることは間違いないのだが、通算記録も含めて打者の各記録では、王、張本、野村、落合各氏が上をいっている。
 昭和26年(1951年)生まれの私も記録映像や本などで知ったのだが、初めての天覧試合で阪神の村山投手から打ったサヨナラ本塁打に象徴されるチャンスに強い打撃。東京六大学の本塁打記録をつくって巨人に入りあわや三冠王かの打撃2冠のスター性。絵になるヘルメットとばすほどの大振りの三振や派手な動作の守備。ハンサムで野球選手らしいスタイル。マスコミが作ったかもしれないが、明るく前向きな性格。野球のテレビ中継はもちろんだが、多くの長嶋本が出版され、映画がつくられ、石原裕次郎氏が歌う歌までできた。人気のもとであり、記憶に残る大選手となった。活躍が高度経済成長とも軌を一にして、「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球』と呼ばれた。
 昭和10,20,30年代生まれは皆知っていることだ。きりがないので別な私の話を。
 大分県の離島で生まれた私も例外ではなくゴムまりの三角ベースから始めた野球が先か長嶋ファンが先だったか分らない。中学時代の野球部では人気のサードのポジションはとうとう獲得できなかった。新聞記者となって1990年代初めの宮崎支局時代、所属した記者クラブで軟式野球チームをつくり、強引に背番号3を獲得し、少しサードを守らせてもらい中学以来の願いをかなえた。
 熊本での大学時代。周りはほとんどが朝日新聞を購読している中で長嶋、巨人ファンだったこともあり読売新聞をとった(あのころは今思うと、学生は金もないのに新聞をとっていた)。そして読売新聞(西部)入社。宮崎支局の時に監督復帰。担当でもないのにキャンプをよく見にいった。監督が一番の人気だった。2001年春季キャンプの時は宮崎支局長の時で、あいさつに伺い名刺を差し上げた。うれしかった。読売にいて良かったと本当に思った。
 意気込んだ割にはたいした原稿はできなかった。多くのファンが「私の長嶋」を持っており、思い出していると思う。私も今から報知新聞創刊140周年記念写真集「永遠のミスター 長嶋茂雄の世界」などを見ながら「私の長嶋」をもっと思い出したい。そして6月3日を「長嶋の日」としたい。(6月3日)