投稿者:岸本 隆三
旅行に行くと何の変哲もない小石をよく拾う。価値はないが、触ったりすると思い出はよみがえり、夏などは書類がとばないよう文鎮の代わりにもなる。パートナーは少し大きめの石をサランラップで包み、漬物石として使ったこともある。それでも、ゴミみたいなのを拾ってきて、とよく言われる。今度は価値あるものをと、9月4日から8日、新潟県糸魚川市の海岸でヒスイ拾いをメインにした旅に友人と行って来た。
福岡と新潟は飛行機で往復し、新潟空港からはレンタカー。着いた日は予定外の八海山ロープウェイに乗り、長岡市の山本五十六記念館、復元した生家や銅像のある山本公園、墓所がある長興寺を回り、八海山など新潟の酒を飲んだ。
2日目にいよいよ糸魚川市に向かいフォッサマグナミュージアムに。糸魚川は初めて。ミュージアムはもちろんフォッサマグナ(大地溝帯)の生成、すなわち日本列島誕生をビデオ等で紹介、さらにヒスイを含んだ大きな岩石から海岸で市民が拾い集めたヒスイを含む小石、ヒスイ加工品(勾玉など)、さらに世界の化石、金、銀やダイヤモンドを含有する鉱石などを展示、石好きにはたまらない博物館だ。私の郷里の珍しい藍鉄鉱も「大分県東国東郡姫島村」のラベル付きで展示されていた。うれしくなった。実は私も小石の藍鉄鉱を持っている。隣の長者ヶ原考古館ではあの火焔土器がガラスケースにも入れられず、他の土器と一緒に展示されていたのにはビックリ。思わず受付の人に「レプリカですか」と聞いていた。
数㌔離れたフォッサマグナパークでは糸魚川―静岡構造線の断層をハッキリ見ることができた。東は赤い岩石で西は白い岩石で色分けされている。何か教科書で習ったことが目の前にリアルにあるというのに感動した。ヒスイを含有する大きな岩石がある姫川支流域には行くと肝心な海岸で拾う時間がなくなるので、残念ながら割愛。河川ではヒスイの採取は禁じられているのだ。姫川河口西側の海岸に行くと砂利浜だ。波が押し寄せ引く時にゴロゴロと音がする。故郷の海岸もこうだったのだが、埋め立てなどで浜が減り、聞かなくなって久しく、なつかしい。
ミュージアムの学習でヒスイはよく知られている緑色の外にも白、黒、黄色などもあるということを知った。捜していると、どの石もヒスイを含んでいるように思えてくる(笑)。拾ったり捨てたりまた拾ったりして結局10数個の小石を持って帰ることにした。緑色がかった小石は、ヒスイだと思っているが、さてどうかな(笑)。
糸魚川市まで行くのに、元日、大地震に襲われた能登半島を見ないのはもったいない。8か月余経って道路も通行できると伝えられており、土曜日で復旧工事のじゃまにはならないだろうと輪島市まで行って帰るだけの旅程を組んでいた。3日目(土曜日)の朝、散居村が見える砺波市のホテルを出発、能越自動車道にのり、途中七尾から西側海岸に出て志賀町の志賀原発前を通る。高い壁で何も見えない。国道249号線を北上していくとつぶれたり傾いたりした家屋、そうでなければビニールシートが屋根の一部を覆っている。輪島市門前町に入る前はがけ崩れが方々に見える。同町に入った釼地漁港は白くなった岸壁、その沖に白くなった海岸が見える。白いのは海中にあったカキなどが枯れたものだ。岩ノリを採取しやすいようにコンクリートで固めた「ノリ島」「ノリ畑」も干上がったままで波はズッと先で砕けている。隆起したのだ。岩ノリ採取を含め豊かな磯は干上がってしまったのだ。
さらに北上して7,8㌔行くと漁港が全く干上がった黒島漁港に出た。港内には陸(おか)の草が生え、港口の防波堤は人の背丈よりも高いところにカキ殻が付着している。その先に波が見える。沖側の防波堤の先が干上がり、陸地化している。同漁港から走って来た南の海岸を見れば、沖の消波ブロックより先に波打ち際がある。海岸線が100㍍以上沖に出ている。帰宅して調べていて分かったのだが、黒島は、江戸時代は千石船の基地として栄えたという。また戦後、岩ノリ採取をしていて波に襲われ30人以上が犠牲となった事故も起きており、吉村昭が「霰(あられ)ふる」(『帰艦セズ』、文春文庫)の短編小説を書いている。100人以上が採取している大きな平たい岩礁を天候の急変による高波が襲ったのだが、思い出そうとしても分からない。とにかく干上がっているのだ。
ナビを入れずに国道を北上していると通行止めの看板。前の車が左に行き、方角も北でいいと思いついて行った。山道になり、工事中のところが多く、工事は休んでいたが狭い道を縫って行っていると前の車は途中で別の道に。とうとう私達だけになり、やっと海岸線に着いた。風よけの間垣を組んだ集落(後で上大沢と分かる)があるものの崖は崩れ、道は崖崩れを避けて新たに通したりしてひどく狭く、ガードレールもない。まだやっと車一台が通れるだけにしたものだ。
進んでいくと海岸は通行止めになり山側に入ってナビを入れて進むとこれも通行止め。離合した車が2台あったのを頼りにナビにない林道を山の頂上まで進んで下るとやっと中心部につながる国道に合流した。ここも多くの家屋がつぶれたり、傾いたりしたままだ。中心部になるとダンプカーは走行しているが、家屋は似たような状況だ。被災家屋の解体は進んでおらず、全然復旧していないのだ。8か月以上も経つのに。人手不足と言われているが、政府をはじめとした行政当局のやる気と予算不足ではないのか。早く訪れ過ぎたと反省してすぐ引き返した。帰りは能越自動車道をズーっと走ったが七尾ぐらいまではほとんど片側車線だけを使用、応急工事でやっと通行できるようにしており、復旧はまだまだだ。
黒島漁港のかつての海底で、白くなった貝殻の付着した小石を拾った。地震で隆起しなければ、私に拾われることもない石だ。これを握って能登を忘れないと念じている。そして本当に復旧したら輪島の奥の珠洲などにも行こう。(9月12日)