投稿者:上原幸則

 53年前、学生の時、母が「和夫が川内(鹿児島県)に工場を建てた。和夫が立派になった」と話していた。町工場の知り合いのおやじさんだろうと、思っていた。後になって京セラ創業者の稲盛和夫さんと分かって驚いた。8月24日、90歳で亡くなった。
 母とは祖父母が兄弟、母が3歳年上。稲盛さんは両親らと鹿児島市の中心部旧薬師町に住んでいたが、戦争で本家がある郊外の小山田町馬山に1945年(昭和20年)8月に疎開した。本家に空き部屋はなく、近くの大力にいた母の父らが山から孟宗竹を切り出して小屋を建て提供した。母は年齢が近いこともあり、親しみを込め旧制中学に通っていた稲盛さんを「和夫」と呼んでいた。小山田町で2年ほど暮らし再建された家に戻った。
 大阪大学進学はかなわず、鹿児島大学工学部に入学。道路沿いの部屋で約百八十センチの長身から足を投げ出すような格好で、考え込んでいる姿を親戚の者が見ている。「このままでは終わらぬ」。気概が感じられたという。
 1955年、京都の碍子会社に就職。ファインセラミック(特殊磁器)の開発に励むが、方針の対立もあって1959年27歳の時、同僚7人と独立。京セラを起こした。電子部品製造で世界的企業に発展させたほか、1984年に第二電電を設立、2010年(平成22年)には会社更生法を申請したJALの会長を無給で引き受け、2年と半年で再上場を果たした。
 江戸時代、薩摩藩は信徒の団結力を警戒して浄土真宗を弾圧した。信徒が家の奥に仏壇を隠し、数人が集まって念仏を唱える「隠し念仏」の慣習が昭和時代まで残っていた。稲盛さんは4,5歳の時、小山田であった隠し念仏に父親と参加した。この時に芽生えた「感謝する心」が、後に仏教全般にも通じる基となった。また、「感謝する心」を大事にして「利他の心」で「世のため、人のためつくすこと」と説いた。科学や芸術で貢献した人に贈る国際的な京都賞を1985年に創設。鹿児島大学に会館と記念館、京都大学と九州大学に記念館を寄贈している。
 郷土愛が強く、座右の銘は西郷隆盛の「敬天愛人」、鹿児島県名誉県民第1号、鹿児島大学名誉博士、愛唱歌は「ふるさと」。経営の神様と評判が高くなっても、1994年(平成6年)、印刷業などを営んでいた父親の葬儀では「父がやってこられたのは皆様のお陰。父が残した財産は皆様のもの」と感謝して親戚一同に贈った。2012年、青年時代に世話になった叔父が亡くなった際は葬儀を取り仕切った。香典は受け取らず参列者に挨拶して回った。
 親戚が縁故入社を頼んでも断っていた。「どうしても入りたい会社ならまず、本人が努力しないといけない。がんばることが大事」と力説。凡人でも「持っている能力で、情熱を燃やし、考える生き方」をすれば素晴らしい人生になると、教わった。帰郷したら、稲盛さんの足跡を訪ねよう。(9月14日)