投稿者:岸本隆三
令和6年、2024年は大変な幕開けとなった。元日いきなり能登半島で大地震。初詣後、博多駅で飲んでいるとニュースが流れた。早めに帰宅するとテレビでは大津波警報が出て、輪島市の朝市会場近くが燃えている。それもドンドン広がっている。
一夜明け、惨状が少しずつ分かって来る。火事のみならず、多数の家屋の倒壊、土砂崩れ、さらに津波も。まるで地震被害のオンパレードではないか。犠牲者も夕方には石川県内で48人と時間とともに増えるなーと思っていたら、羽田空港で炎上するエアバスの日航機。ニュース映画で見た戦前の燃える飛行船のように骨組みが見える。これで、乗員乗客全員が脱出して無事だという。信じられないと思っていると海上保安庁のボンバルディア機(6人)と滑走路で衝突したという。これもちょっと信じがたい。海保機の5人が亡くなった。地震の支援物資を運ぶための飛行予定だったという。何とも言いようがない。
2日は新聞休刊日で、待った3日の朝刊を読み、テレビの地震と事故の続報を見ていると今度は小倉北区の飲食街で火災だという。中継では火の勢いは衰えない。旦過市場が燃えたばかりではないか。犠牲者がいないのが救いだ。昨年8月の2回目の旦過市場の火災は油などの入ったフライパンを火にかけた状態で、その場を離れたのが原因とされているが、今回も同じようなことが疑われている。何と言えばいいのだろうか。
地震も怖いが火事も怖い。取材で3ケタの火災現場に行っているが、慣れることはなく、身震いしていた。しかし、新年早々でなくてもこんなにひどい火事の三連発は聞いたことがない。
地震に話を戻す。
6434人が犠牲となった阪神大震災は29年前の正月、1月17日起きた。当時は成人の日が15日で、1995年は15日がちょうど日曜日で16日が振替休日。「正月気分ももう終わりだ」という17日未明の発生だった。出勤時はまだ様子がよく分からなかった。しかし犠牲者はその日のうちに1000人を超えた。
能登半島地震は地震の規模を表すマグニチュード(M)は7・6と阪神大震災(M7・3)を上回った。輪島市の皆月湾は約4㍍隆起し、海岸線が海側に200㍍移動したという。何ともすさまじい。漁港が干上がってしまっている。
熊本地震(2016年)が起きた時、ちょうど歩いて四国遍路をしていた。南海トラフ地震が来る来ると言われていた高知県を歩いていた時、熊本地震が起きたのだ。この時も「熊本で地震が起きるのか」だった。空海が修行をし、「明星口ニ入リ」の体験をしたという御厨人窟(みくろど)は室戸岬の先端にあり、太平洋を臨む。地殻変動の本場だ。室戸岬灯台あたりは6万年前に海底が陸地になり、3万年前にもっと隆起、1000年前には4㍍。すでに空海は入定しており、今見る景色は空海が見たものとは違っているはずだ、と遍路仲間で話したりした。さらに、近世に入って宝永地震(1707年)、安政南海地震(1854年)、昭和南海地震(1946年)と起きてその度に隆起、今も続いている。宝永地震はM8・6。この時の隆起は7、8尺(約2㍍)と言われる。政府の地震調査研究本部が公表している地震の規模や30年以内の発生確率を予測しているが、能登半島は高くなかった。それが南海トラフ地震に匹敵する地震が起きたのだ。
高知市では「天災は忘れられたる頃来る」の寺田寅彦記念館にも寄ったが、今や天災はいつでもどこでも来るのだ。阿蘇神社の桜門が復旧したのは昨年の暮れだった。
新型コロナウイルスが5類になっての初めての正月。筆者も2006年夏、和倉温泉に泊まり、輪島の朝市も見学したことがあるなど能登半島は有数の観光地でもある。帰省や観光で人も増えていた。配偶者や子供全部を失った人もいる。何とお悔やみを申し上げればいいのか。しっかりしたケアをお願いしたい。
そして雪の積もる体育館や公民館、ビニールハウスに避難している被災者。馬齢を重ね頻尿とともに膝を痛めてから布団で寝るのが苦痛となり、避難の大変さが前より理解できるようになった。福岡県も福岡市も県営、市営住宅を無料で提供、保育園なども受け入れ準備を進めている。
輪島の朝市では福岡なまりの店主にも会った。宮本常一の「海人ものがたり」によれば1569年ごろから、筑前鐘が崎(現・宗像市鐘崎)の海人が毎年2月頃輪島に行き、暮れには帰ることを続け、1649年、加賀藩から土地を与えられて定住、舳倉島などで漁を続けた。400年近くなるのに、なまりがまだ残っているのだ。その輪島が大きく被災した。事情が許せば、少し遠いけれど、ぜひ福岡県に二次避難してほしい。温かく迎えたい。(1月20日)