投稿者:古賀 晄
「アンパンマン」の作者、やなせたかしとその妻のぶを主人公に描くNHKテレビ小説「あんぱん」。敗戦直後の東京・下町に溢れた戦災孤児たちに、主人公・朝田のぶがカメラを向ける場面が印象的だった。今年は戦後80年、「戦災孤児」は最年少でも後期高齢者に到達している。『浮浪児1945―戦争が生んだ子供たち』(新潮文庫)を書いたルポルタージュ作家石井光太氏は「11年間に取材した元浮浪児の8割がすでに死没した」と述べている。
福岡市でも「浮浪児」があふれ、かっぱらいや反社会勢力の手先になったケースも後を絶たなかった。しばしば行政と警察による「狩り込み」が実施されたが、保護というより厄介者の“駆除”に等しい扱いだった(夕刊フクニチ新聞1949年3月25日付より一部引用)。
1948年2月の厚生省の全国孤児一斉調査によれば、戦災孤児、外地から引き揚げ途中に親を失った孤児は12万3511人(米軍統治下の沖縄県は含まず)、福岡県は3677人。福岡市内には戦災孤児や引揚孤児の保護のため、1946年7月に臨時収容施設「松風園」(現百道松風園)と恒久施設「青松園」(現和白青松園)が開設された。福岡市博多区の禅寺「聖福寺」も独自に孤児保護施設を設けている。
私のふる里、朝倉郡馬田村(現朝倉市馬田町)にも、福岡県児童福祉司・八尋徳造氏の奔走で1949年11月に児童養護施設「ひばりが丘学園」が開設された。園舎はかつての伝染病院だったので、村はずれで旧大刀洗飛行場跡の開拓地東端にあった。同開拓地に入植した73世帯の中には私の家族も含まれ、馬田小学校では「ひばりが丘学園」の同級生がいた。しかし村の子らは、「よそ者」の学園児童や開拓民に冷ややかだった。開拓民の子は学園の子をさらに見下す構図もあった。
開拓地では初夏の夜、青年団によるヒバリ狩りがあった。獲物は貴重なたんぱく源だったのだ。小学3年のある日、ヒバリ狩りの話になり、「ヒバリの子は焼き鳥にもならんったい」と何気なく口にした。すると、「ひばりが丘学園」のユタカ君(仮名)が怒って取っ組み合いになった。彼は自分たちがバカにされたと感じたのだ。
気まずい関係が続いたが、半年ほど経ってユタカ君が話しかけてきた。
「生まれて初めてちらし寿司を食べた。君のかあちゃん、すごいね」と。
母は当時、ひばりが丘学園の臨時炊事係をしていた。貧しい食事続きの園児たちを不憫に思い、わが家の貴重な卵を持ち出してちらし寿司を振る舞ったのだという。
これがきっかけでユタカ君と仲良しになり、帰り道はいつも一緒だった。二人とも絵を描くのが得意で、さまざまなコンクールで入賞を競った。中学校に進むとユタカ君が才能を開花させて置いてけぼりを食った。
米軍板付基地(現福岡空港)の米空軍将校が同学園を慰問した際に、ユタカ君の絵に感動して支援を申し出た。ユタカ君は私と同じ高校に進学、美術部で腕を磨き、福岡県展で上位入賞するほどだった。彼は卒業後、有名メーカーにデザイナーとして入社。それぞれ進む道が分かれて音信が途絶えた。同窓会で、ユタカ君はロンドン出張中に交通事故で死亡したと知った。まだ20代半ば。戦災孤児として生き抜いた彼の人生は、あまりにも短かった。
大戦から80年の現在もウクライナや中東で戦火は絶えず、多くの戦災孤児が生まれている。人間とは、いかに愚かで、そして哀しい存在なのだろうか。 (7月18日)
