投稿者:古賀 晄

 沖縄にはパスポートが必要な時代を含め何回行っただろう。ベトナム戦争の最中に米空軍の戦略爆撃機B-52が嘉手納基地から北爆へ発進するのを見た。先島諸島の石垣島を訪ねた時、苦力(クーリー)貿易の犠牲者を慰霊する唐人墓の存在を知った。
 石垣島の観音崎に建つ唐人墓は極彩色の中国風の霊廟でアメリカの苦力(クーリー)貿易船ロバート・バウン号から脱走して石垣島で死亡した128人の中国人が眠っている。建立は沖縄返還(1972年)の前年、1971年の米軍統治下だったから、アメリカの負の遺産を表ざたにするには相当の勇気が必要だったのではないか。
 バウン号事件は碑文に経緯が記されているが、綿密な調査をまとめた論文「苦力貿易とロバート・バウン号事件」(西里喜行・琉球大学教育学部教授)を一部引用して紹介したい。1852年3月、ロバート・バウン号は中国・厦門(アモイ)から400人余の苦力を乗せてカルフォルニア州に向かった。苦力は海外出稼ぎ労働者といわれるが実態は奴隷だった。出航して間もなく船長らは、苦力の胸に焼き印を押して当時の中国人の誇りだった辮髪を切り落とした。病人は海に投げ落とした。
 怒りを爆発させた苦力たちは船長と副船長ら5人を殺害、バウン号を奪って台湾に向かったが、石垣島の沖合で座礁。苦力380人が石垣島に上陸した。琉球の役人や島民は苦力を仮宿舎に保護して衣食住を提供、病人の手当てもした。
 離礁して厦門に戻ったバウン号乗組員の通報で米英両国領事は同年5月に英戦艦2隻を派遣、石垣島を砲撃した後、上陸した武装兵200人余が苦力捕縛作戦を展開、苦力23人を捕らえて引き揚げた。山中に逃亡していた苦力たちは宿舎に戻ったが、今度は同月22日、米国の帆走戦艦「サラトガ」が来航、上陸した武装兵が57人を捕獲して厦門に連行した。捕縛を逃れた苦力172人は1853年11月に琉球王国が清国側に送り届けた。清国側は裁判で1人を有罪としたが他は無罪放免とした。アメリカ公使は清国に圧力をかけるよう本国に軍艦の派遣を求めたが、この事件を契機に清国では激しい苦力貿易反対運動が起こり、16世紀以来続いた苦力貿易は廃止された。
 琉球王国は清を宗主国とした冊封体制の下で従属国であり、一方で薩摩藩の支配下にあった。同年5月にペリー提督が東インド艦隊を率いて琉球に開港を迫った。東アジアへの進出をもくろむ米英など各国の思惑とせめぎ合いの狭間で、琉球は外交努力を重ねつつ、人道的な解決を図った様子が伺える。
 ちなみにペリー提督は、同年7月8日に浦賀に来航、開港を要求した。翌1954年2月に再び戦艦9隻を率いて浦賀に来航したが、いずれも石垣島で苦力狩りをした戦艦「サラトガ」が艦隊の一翼を担っていた。
 現在、沖縄、とりわけ先島諸島では尖閣列島の領有権を中国、台湾が主張しているほか、中国が東シナ海で圧力を強めている。沖縄、先島諸島が再び国際情勢の渦に翻弄されないことを祈りたい。 (12月20日)

石垣島の唐人墓。苦力貿易船から脱出、島内で死亡した中国人128人の慰霊碑