投稿者: 上原 幸則
駆け出し記者の時、女性画家の個展を取材、「見事な作品が多く、これで立派な画伯ですね」と話したら「画伯は普通、男性の画家の敬称です」と諭され、知ったかぶりをして恥をかいた。それ以後、著名画家の作品は出来るだけ見るようにして、昨年12月には島根県安来市の足立美術館に出かけた。横山大観の作品が目当てだったが、大した知識がある訳でもなくガイダンスを聴きながらうなずくだけ。それでも、本物が醸し出す画風は伝わってきた。
今、福岡県立美術館で「中村研一と中村琢二展」が開かれている(2月2日まで)。二人は宗像出身で、日本の洋画界に大きな足跡を残した。
年譜などによると、研一(1895-1967)は修猷館、東京美術学校と進み、フランス留学を経て、帰国後は帝展で受賞を重ね、戦後は日展の審査員。正確なデッサンと筆致で、真摯に写実を追求している。戦時中の作品は描写力が優れており、戦後は夫人をモデルにした作品も評価されている。
琢二(1897-1988)は、修猷館から六高を経て、東大経済学部卒。肺の病気で入院生活をおくった後、31歳の時、フランス留学から帰ってきた研一に画家への道を勧められ、33歳で二科展初入選。49歳で日展入選、以後審査員や理事を務めた。風景画、肖像画を主に描きみずみずしい色彩で柔らかな描写、穏やかな作風となっている。
二人展は、「絵描きを志して」「大切な人々、身近な風景」「光と影、線と形を求めて」「色彩の遊び」「描くことの幸福」の5章から成る。大した鑑賞眼は無いが、同じような題材が並ぶと二人の画風の違いが分かる一方、戦後の研一の絵は、時代も反映しているのだろうか、色彩が明るくなり、琢二と似たような画風の印象も受ける。琢二が描いた「研一のベッド」を観ていると、二人の仲は良かったのだろうと思える。研一の「祖母トミの肖像」は36歳の時の作品。父親は鉱山技師で転勤があったため、研一5歳、琢二9歳で宗像の祖父母宅に預けられて、育った。重みのある茶褐色、写実的な絵に祖母への敬愛の念が感じられる。
受付の話では、たまたま二人展を観て「地元にすごい兄弟画家がいたのですね」と驚く人もいる。
また、同展には研一と琢二が愛した古里・宗像や古賀で作品の収集や公開に携わってきた個人・法人にスポットを当てる意味もあり、地元から多くの作品が寄せられている。。
生家を引き継いだ中村嘉彦さんは、1997年頃、家や親戚宅に残っていた作品を集めて2階建てのギャラリーとして公開、さらにリニューアルした生家にも展示、私設美術館として公開している。
近くの南郷小では、琢二の孫を講師に特別授業があり、生い立ちや作品を観て色使いなどを学んだ。子どもたちは、先輩の後世に残る画業を知ることで、地元を見直し誇りにすることだろう。(1月27日)