投稿者:大矢 雅弘

 「男子厨房に入らず」という古い言葉がある。調べてみると、一説では、孟子の教えの中に「君子は庖厨(ほうちゅう)を遠ざく」(君子は憐れみ深いので、動物がさばかれる姿が見えていたり、動物の悲鳴が聞こえたりする厨房に近づくことは忍び難い)とあることに由来するといわれる。
 本当に恥ずかしいかぎりなのだが、私は還暦を迎えるころまで、米を炊いたことがなかった。妻の誕生日に、娘の助言に従ってカレーライスを作ったのが初めての炊飯体験だった。そんな私が料理に向き合うきっかけになったのが、石蔵文信さんの著作「男のええ加減料理」(講談社)に出あったことだった。新聞記者として最後の赴任地となった熊本県・天草で、それまであまり経験していなかった単身赴任生活が始まったことも影響していたのだろう。
 石蔵さんは内科・循環器科の専門医で、「夫源病 こんなアタシに誰がした」(大阪大学出版会)の著書もある。「夫源病」の名付け親の石蔵さんによると、夫源病は夫との関係が妻に引き起こすストレス性の症状を意味する。夫が定年を迎えた妻は、「亭主元気で留守がいい」状態から、日中も夫に束縛されることでうつ状態になってしまう。一方、定年後の男性も、最初のうちは旅行や趣味で楽しく過ごせるが、次第にやることがなくなり、うつ状態になる人も。そこで「定年後の夫が昼食を作れば、夫婦ともに、うつ状態から脱するのではないか」と考えた石蔵さんは「男のええ加減料理教室」を始めたという。
 石蔵さんの文章を読み、数年後に会社を離れた後の私自身の家庭での振る舞い方を想像した。妻に多大な迷惑をかけたり、嫌な思いをさせたくないという心理も料理に挑戦する動機づけになったのではないかと思う。
 「男のええ加減料理」は土鍋一つで作る、味付け調味料は原則的に1種類といった決まりがある。土鍋は調理器具だが、そのまま食器にもなり、面倒な洗い物の手間も最低限にしてくれる。調味料は、市販品のすき焼きのたれなどを使い、調理工程のハードルを下げてくれる。私が最初に作ったのは「豚にらもやし」だ。味付け調味料は塩のみ。調理時間は15分。それを福岡から訪れた妻にふるまったところ、「おいしいね」とほめてくれた。お世辞だろうが、うれしかった。
 料理をするようになって、ずいぶん昔に取材でお世話になった福岡市の高齢者施設「宅老所よりあい」代表(当時)の下村恵美子さんから教わった言葉を思い出した。「家庭で日々、主婦が食事をつくる行為はとても高級な知的作業なんです」。日に3回ある食事づくりには、さまざまな段取りが含まれている。嗜好(しこう)や季節に目配りして献立を考え、買い物をする。さらに調理、味付けという風に料理には一連の流れを通して頭を働かせるポイントがたくさんあるのだ。つまり、認知症の予防策にもなりうる、と考えられるのだ。

 いまは毎週2回、妻に代わって私が夕食をつくると決めている。ただ、料理本に紹介されたレシピ通りの材料がそろっていないと何もできない。帰省中の娘にそのことをぼやいたら、娘はすぐさま「冷蔵庫+残り物+レシピアプリ」でネット検索するよう助言してくれた。いまや冷蔵庫の食材・残り物で作れるレシピアプリも登場しているのだ。とはいえ、私自身が冷蔵庫の中にあるもので、自在に料理を作れるようになるには、もう少し修業が必要ということだろうか。(10月25日)