投稿者:古賀 晄
1945年8月15日。太平洋戦争の終戦の日だ。まだ2歳だったが、その戦争のほんの一瞬をこの目で見た記憶が私にはある。
父が出征中だったため母の実家がある現・福岡県朝倉市宮野町須川に母とともに身を寄せていた。空襲警報のサイレンが鳴る度に実家の横に掘った防空壕に祖父母と母、2人の叔母に抱かれた私は避難した。可愛がってくれた叔母によると、暗闇と頭上を通過するB29の轟音におびえた私は大声で泣いたそうだ。叔母が「そげん大声で泣くとB29に聞こえるバイ」となだめたという。ある日、「もう大丈夫だ」と祖父が言って防空壕の戸を開けると、晴れた大空を西の方に向かうB29の大編隊が見えた。青空に銀色に輝く姿は大きな魚の大群のようで美しいとさえ思った。
記憶はわずかそれだけである。のちに聞いたことを自分が見たと思い込むデジャビュ(既視感)ではないかと指摘されたこともある。確かに戦時中の逸話はたくさん聞かされたが、そのエピソードはモノクロームで、「巨大な魚の大群のようなB29の大編隊」の記憶だけは今も天然色なのだ。だから私が目撃した“戦争の記憶”だと信じている。
のちに太平洋戦争の被災記録を調べると、私が疎開していた宮野町から西へ約12kmの旧陸軍大刀洗飛行場は終戦末期の1945年3月に2度にわたる空襲で壊滅、福岡市も同年6月の大空襲で焼け野原になり、死者は1000人超を数えた。私の母校である甘木中学校(現在は移転)の近く、朝倉市頓田(とんだ)の田んぼの中にある頓田の森で悲劇が起きた。1945年3月27日に大刀洗飛行場が空爆された時、立石国民学校の児童がこの森に逃げ込んだが、そこに投下された爆弾で児童31人が犠牲になった。私の高校時代の恩師、桑原達三郎氏の著書「太刀洗飛行場物語」(葦書房、1981年発刊)に、この森に児童を誘導した教師や遺族の証言が詳細に記されている。
頓田の森に近い一ツ木神社には遺族の拠金によって建立された一ツ木延命地蔵菩薩がある。31人とその後の空襲で死亡した児童1人を加えた32人の慰霊碑である。その台座の由来記には「たとえ国家非常の時とはいえ、いたいけな児童たちの生命を、爆死という最も無残な姿で奪われた親心の二度と繰り返してはならない戦争への憤りであり恒久平和を願ってやまない叫びである」(一部抜粋)と刻まれている。頓田の森は爆撃目標の飛行場から4kmも離れていて、どうみても軍事目標とはいいがたい。“ガムでも吐き捨てる”ように落とした爆弾で多数の児童が犠牲になったのは理不尽としかいいようがない。
今も地球上では同じことが繰り返されている。ウクライナに侵攻したロシアは主要都市を空爆やミサイル攻撃、多数の民間人の死者が出ている。また、中東のガザ地区ではイスラエル軍の空爆で3万人を超える民間人、特に女性や子どもが犠牲になって、種子島ほどの面積のガザ地区の片隅に100万人ものパレスチナ人が追い詰められている。
戦争は民間人を必ず巻き込む。「きれいな戦争」などはあり得ない。
(7月29日)