投稿者:大矢雅弘

 新しい千円札の裏面を傾けると「1000」の文字の下に「NIPPON」の文字が浮かび上がる。そんなことを医学博士の北里英郎さんから教わった。北里さんの曾祖父、北里柴三郎(1853~1931)は昨年7月から発行されている新千円札の顔になった。「近代日本医学の父」と呼ばれる北里柴三郎の生まれ故郷、熊本県小国町にある北里柴三郎記念館を先日、訪れた。
 柴三郎はペリーが来航した1853年、庄屋の長男として旧北里村に生まれた。熊本医学校(現在の熊本大学医学部)から東京医学校(現在の東京大学医学部)に進み、内務省衛生局を経て、1886年にドイツ・ベルリン大学衛生研究所へ留学。結核菌の発見者で、後に「結核に関する研究」でノーベル医学生理学賞を受賞するロベルト・コッホの下で研究に携わった。1890年には、破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功し、治療法を確立した。留学から帰国後、わが国初の私設の伝染病研究所「北里研究所」を設立。慶応大医学部の創設や日本医師会の創設にも尽力した。
 柴三郎の功績を伝える記念館には、感染症研究に尽くした生涯を動画で紹介するシアタールームなどを備えたドンネル館をはじめ、柴三郎が小国町に寄贈した北里文庫(図書館)や貴賓館、生家の一部などがある。今回の訪問の目的は、記念館で開催中の特別展「熊本から世界へ」の見学だった。特別展は、柴三郎と熊本県天草市牛深町出身の宇良田唯(うらたただ)(1873~1936)の交流を紹介している。宇良田は、ドイツに渡り、日本人女性で初めてドイツの医学博士号(ドクトル・メディツィーネ)を取得した。
 宇良田の生涯に光があたることはこれまで少なかったが、近年は功績を再評価する動きが続いている。2023年には、宇良田の古里の牛深町で生誕150周年記念祭も開かれた。「宇良田唯 日本女性初の『ドクトル・メディツィーネ』生誕150周年記念誌」によると、宇良田は1873(明治6)年、当時の牛深村で海産物商や金融業などを営む富豪「萬(よろず)屋」の7代目、宇良田玄彰とキシの次女として生まれた。
 18歳のころ、村の豪商の若旦那との縁談が持ち上がる。盛大な祝言が催されたが、その最中に花嫁の姿が消えていた。「私は花婿さんが嫌いで出奔するのではありません。もっともっと勉強がしたいだけなのです」と書いた手紙を残したと伝えられる。
 1890年に熊本薬学校(現在の熊本大学薬学部)に入学。薬剤師の免許を取得すると96年に上京し、私立医学校「済生学舎」に進学し、99年に医師となった。その後、牛深に戻って眼科医院を開業したが、わずか1年で再度上京し、柴三郎がいた国立伝染病研究所に入所。1903年、ドイツのマールブルク大学に留学し、05年に医学博士号を取得した。
 帰国後、宇良田は眼科医院を開業。柴三郎の紹介で伝染病研の薬剤師だった中村常三郎と結婚した。柴三郎の強い勧めもあって中国・天津に渡り、眼科や産婦人科、内科などをもつ総合病院を設立した。貧しい患者からは治療代を受け取ることはなく、「医は仁術」を実践したという。しかし、満州事変を機に排日運動が広がり、病院の一部は日本軍に接収された。宇良田も33年に日本に引き揚げ、その3年後、病に倒れて63歳で亡くなった。
 宇良田のひたむきな向学心と功績をたたえ、2021年には熊本大学薬学部内に胸像が建てられた。22年には、マールブルク市に「Tada―Urata―Platz」(唯広場)と名前を冠した場所も生まれた。
 今回、牛深町と記念館をつないだのは、天草地域総合研究所理事長の山口誠治さんだ。昨年12月には記念館の北里英郎館長を講師に天草市で「北里柴三郎博士と宇良田唯女史」と題する講演会が開かれた。この講演会を機に、特別展が企画された。
 特別展会場のドンネル館では、ドイツ留学の船旅の途中、宇良田が香港から両親に宛てた手紙や直筆の遺書、年表や関連の写真などを展示している。天草で4年4カ月間、暮らした人間として、波乱に満ちた心やさしい女性のことを多くの人に知ってもらいたい。特別展は2月28日まで。(2月21日)