投稿者:上原 幸則
家の近くの福岡県護国神社(福岡市中央区六本松)で、旧ソ連に抑留されシベリア・モンゴル地区で亡くなった人たちを追悼する慰霊祭(一般財団法人・全国強制抑留者協会主催)が10月20日にあった。妻が入会している草ヶ江公民館コーラスヴィオラが、古里をしのぶ唱歌も披露するというので参列した。
抑留では、極寒のなか過酷な労働で57万5000人のうち約5万5000人が死亡、福岡県関係は1263人となっている。慰霊祭では約50人が黙祷、献花を行った。
慰霊祭の後、佐賀県多久市の坂口康子さん(87)の講演があった。坂口さんは1937年(昭和12年)、旧満州(現中国東北部)の生まれ。父は製紙工場を営んでいたが、1945年5月に召集され、戦後抑留された。母は8月に病死。姉1人、兄2人、弟2人の子ども6人で生活することになった。終戦時は8歳、幼い弟2人は病気で相次いで亡くなり、残ったきょうだいでまきを拾って集め荼毘(だび)にふした。
4人で11ヶ月の避難生活を経て引き揚げ船で1946年7月、京都・舞鶴港に着いた。風呂と食事を提供してもらい、「親が佐賀の小城出身」の言い伝えを頼りに列車で西に向かい、佐賀駅で父の顔に似た男性と偶然、出会った。見つめていると「甥と姪たちか」と声をかけられ、父の兄と分かった。その後、きょうだいは別々に親戚宅に引き取られ、戦後を生き抜いた。
生活が落ち着くにつれ、抑留された父への思いは募った。消息は不明だったが、戦後46年の1991年(平成3年)4月、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が来日したのを機に抑留死亡者名簿が新聞で公開された。小さなカタカナで記された父の名前を見つけ何度もなぞった。シベリアのビラで亡くなっていた。
翌年、姉や遺族約30人の墓参団で新潟から空路、ロシアに渡りビラで白木の墓標を見つけた。墓地と言われていたが、荒れた森の一部だった。何度も墓標を撫でながら「一緒に日本に帰りましょう。皆さまの苦労を語り継いでいきます」と呼びかけた。
講演のタイトルは「蟻のなみだ」。きょうだいで古里を目指した姿を一列で進む蟻にたとえた。「戦争は残酷。普通の暮らし、平和ほど尊いものはない」と訴え、最後に父や平和への想いを詩にして、作曲は大学の先生に手がけてもらった歌を披露された。87歳とは思えない高らかな声だった。
坂口さんは、父への供養のつもりで書いていた手記を勧めもあって本として昨年出版。中学校や地域の集会で体験を語っている。
慰霊祭の会場を出ると、神社の境内には一足早く、七五三詣りをする多くの家族連れが見られた。袴や晴れ着姿で、やや照れ気味な子どもたちと成長した姿を喜ぶ親。来年は終戦から80年。普通の風景が続いていくよう、本殿に向かい手を合わせた。(10月29日)