投稿者:古賀 晄

 ジャーナリストという職業柄、名刺一枚で著名人や「各界の大物」に会う機会があるが、とりわけ感銘したのは、日野原重明・聖路加病院理事長(当時)の生き方だと思っている。
 取材したのは17年前の2008年6月初旬。福岡大学医学部・病院創立35周年記念の市民公開講座で特別講演する日野原さんの予告企画を書くためのインタビューだった。名刺交換が済むと「福岡には特別な思いがあります。あのことで私は生き方が変わりました」と語り始めた。新聞社を卒業してフリーの記者である私に与えられた時間は約1時間。途中、次の面会者を告げるのであろう、秘書が渡そうとするメモを3度も受け取らず「命について子どもたちに伝える大切さ」を当時97歳の日野原さんは熱く、しかし分かりやすい言葉で語った。
 1970年3月31日、福岡市での日本内科学会に出席のため日野原さんが搭乗した日本航空「よど号」が赤軍派を名乗るグループにハイジャックされ人質になった。4月3日夜、犯人グループはよど号ごと北朝鮮に亡命。その過程で乗客の一部は福岡空港で、日野原さんら乗客と客室乗務員は韓国・金浦空港で解放された。この間、日野原さんと同乗していた吉利和・東京大学医学部教授(当時)は人質となった乗客の健康診断をした。緊迫した膠着状態が続き「死をも覚悟した事件」を契機に「内科医としての名声を追求する生き方をやめた」と日野原さんは語った。
 この取材で最も心に残ったのは全国200校以上の小学校で伝えた「命の大切さ」だった。
 「大切な物の中には見えないものが多い。命も見えない」。「命は君たちが持っている時間です。時間も空気と同じで見えないけれど、『時間』を自分のために上手に使って、大きくなったら誰かのためにぜひ君の時間、つまり命を使ってください」と。
 もう一つは、回診で心がけているスキンタッチ。日野原さんはこれを「手当て」と言った。病床の患者の背中の下に手を静かに入れる。患者は理事長直々の「手当て」に驚くが、すぐに安堵の表情に変わる。背中とベッドの間にすき間ができて楽になるからだ。どの角度でどう手をいれればよいか、自分自身の8か月間もの闘病生活で会得したのだそうだ。
 聖路加病院を訪れた時、ロビーや礼拝堂施設の広大なスペースに驚いた。建設前には「無駄な過剰投資」と批判があったが、日野原さんは東京大空襲の際に満足な対応ができなかった経験から「大災害や大量の被災者が出た時に機能できる病棟が必要」と押し切った。
 実際に3年後に起きた化学テロ、地下鉄サリン事件(1995年)では死者14人、負傷者6000人が出たが、聖路加病院は新病棟の広大なロビーと廊下や待合室の壁に設置していた酸素吸入配管2000本などが緊急応急処置として機能した。83歳だった日野原さんの陣頭指揮で外来診察など通常業務をすべて中止して被害者を制限なく受け入れ、解毒剤PAMをすべて放出して治療した被害者は640人にのぼった。

 日野原さんは2017年7月18日、名誉院長として105歳で亡くなったが、「命ある限り現場に立つ」信念と生き方は、いつまでも語り継がれることだろう。
 余談だが、企画記事の掲載後、かなり年月を経たある日、後輩記者が話してくれた。「福岡大学医学部長室に見開き2ページのあの紙面がまだ貼ってある」と。(5月27日)