投稿者:上原幸則

 年の始めに近くの平野神社(福岡市中央区今川)に参った。平野国臣の生誕地に建つ神社。歌人で国学者、30歳で尊王倒幕の志士となり東奔西走、最後は但馬生野で挙兵するも敗れ、37歳の生涯を終えた。
 1828(文政11)年、福岡藩下級武士の二男に生まれ、18歳で福岡藩に仕え江戸藩邸勤務、24歳で宗像大社・普請方で大島に赴任。薩摩藩の跡目争いで島津斉彬派について敗れ、黒田家の手で島に匿われていた同藩の武士と国事を論じて目が開いた。1853(嘉永6)年、26歳で再び江戸藩邸勤務、ペリーの黒船来航で幕府が揺れていた。水戸藩学者と交わり尊王熱が高まった。28歳で福岡藩が警備を担っていた長崎へ。外国艦隊の横暴ぶりを見て新たな国づくりを考え始めた。
 30歳で養子先から平野家に戻り妻子とも別れ、平野二郎国臣を名乗る。徳川の民、黒田家の家臣でもなく国の民だという覚悟で福岡藩も辞した。倒幕へ傾き、翌年脱藩して京に上り、薩摩藩の西郷隆盛と知り合った。福岡に戻ると、幕府大老の井伊直弼が反対派を弾圧する安政の大獄が始まり、清水寺の僧・月照が福岡に逃れてきた。薩摩への同行を頼まれた国臣は、関所を避け海路で強行上陸。西郷が藩内を説得するはずだったが、幕府に逆らってまで月照を保護することは出来ず日向送りとなった。国臣も一緒に舟で向かう途中、望みを絶たれた月照と西郷は鹿児島湾に身を投げた。西郷は蘇生して、奄美大島へ送られた。西郷が主人公のドラマでは有名な場面、国臣はあまり出番がない。
 2年後の1860(万延元年)年、倒幕を促すため同志と鹿児島の城内に入ろうとするが、藩論は公武合体で、伊集院(現在の日置市)で足止めされた。この時詠んだ歌が「我胸の燃ゆる思ひにくらふれは 烟ハうすし桜島山」(平野神社の歌碑より)。この地は私の実家から10㌔ほどで碑が建っている。桜島からは20数㌔。目を凝らし桜島というか、煮え切らない薩摩藩をにらみつけている国臣の悲憤慷慨ぶりが伝わる。今は恋や決意を示す時にも引用されている。
 1862(文久2)年、参勤交代で大蔵谷(兵庫県明石市)まで来た福岡藩主・黒田長溥に都の不穏な動きを伝え義挙を求めるが、警戒した一行は引き返した。「大蔵谷回駕」として知られる事件。国臣は同行を許された後、脱藩の罪で捕縛され藩の牢に入れられた。
 筆、硯は許されず、考えついたのが粗末な紙をこよりにして米粒で紙に貼り付け文字に見せる方法。1年の間に自分史や短歌集など、7編11巻を仕上げた。福岡市博物館に展示されている「囹圄和歌集」を見ると、こよりの文字は丁寧で国臣の情熱と思いを感じた。囹圄は牢屋の意味。
 今はスマホで文字を打てる時代。高齢となりさすがに「燃ゆる思ひ」は薄らいできたが、文字への思いは深めていきたい。同博物館に名著「歩き遍路の旅」(岸本隆三著)もあった。読み直してみると、足のマメの痛さを酒で癒し53日かけ結願した筆者の思いが伝わってくる。御利益もありそうだ。(1月10日)