投稿者:古賀 晄

 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞が決まった。「平和賞は政治的」と世界中でしばしば論議が起きて、時には「政治的な動機による受賞」との批判を浴びることもある。しかし、今回の受賞が原爆被爆の歴史的事実を世界に再認識してもらうきっかけになるならそれでいいと信じたい。広島、長崎の原爆被爆者の平均年齢は85.58歳と高齢化が進み、実体験として証言できる世代はごく少数になったが、被団協にも所属せず被爆の語り部を続けている人がいる。
 福田眼科病院(福岡市早良区藤崎)会長の福田量さん(93)がその1人である。半世紀にわたる離島での無料診療で1996年に第24回医療功労賞中央表彰を受賞するなど医療による社会貢献では知られているが、私は同病院50周年記念誌編纂に携わったことで、福田さんが長崎原爆の被爆体験を語り継いでいることを知った。
 福田さんは旧制中学2年生、14歳の時に長崎市の爆心地から3.4kmの自宅前でB29爆撃機の機影と投下されたパラシュートが開いたのを見上げた瞬間、閃光と爆風を受けて気を失った。爆心地から1kmの工場で被爆した父親は、その夜、満身創痍で帰宅したが約1か月後に放射能による急性骨髄性白血病のため命を落とした。田舎から駆け付けた従兄弟と2人で父親の遺骸を大八車に乗せて空き地に運び、古い木材を積んで荼毘(だび)に付した。被爆直後には、父と同じ工場にいたはずの別の従兄弟を探し回ったが遺品も見つからなかった。
 「救護所になった小学校は廊下まで焼けただれた瀕死の重傷者であふれ、目に映るものすべてが生き地獄だった。運動場では来る日も来る日も遺骸を焼き続け、腹部に溜まったガスが破裂する鈍い音は今も忘れられない」と語る。
 語り部を始めたのは、1985年に学校医を引き受けた室見小学校(福岡市早良区)で被爆体験を語ったのが最初だった。1986年に「核兵器廃絶平和宣言」を掲げた福岡県岡垣町から招かれ、3年間にわたって同町内の5小学校で6年生の平和授業で講話を行った。この際に知人の画家の協力で自分の被爆体験を紙芝居にして披露した。「児童が理解しやすいように」との工夫だった。この講話が各地の学校に伝わって毎年夏になると平和授業の講話依頼が増えていった。「気づいたら語り部の活動は40年余になる」。小学校のほか、自らが学校長を務めた福岡市医師会看護専門学校でも毎年8月に被爆体験を語っている。爆心地に近い長崎医大の医師ら医療従事者700人余が犠牲となり、被爆直後の極端な医師不足の中で、大阪日赤から派遣された看護師の献身的な救護活動がどれほど救いとなったか、看護師を志す若い人たちに伝えたいからだ。
 被爆証言を語り続ける理由を改めて尋ねると、「原爆投下をこの目で見た者は私たちの年代が最後だろう。ほどなく『被爆者なき時代』が訪れる。記憶を次の世代に受け継いでもらうには、いま語り部を止めるわけにはいかない」と福田さんは静かに答えた。
 原爆被爆80年に当たる2025年夏には小規模の被爆体験を語る会を計画している。その時、福田さんは94歳。孤高の語り部の活動は命ある限り続く。(10月31日)