投稿者:古賀 晄
私は長く暮らした福岡市・天神地区を離れ、7年前に市内南区横手のマンションへ移り住んだ。都心の利便性を離れることに迷いもあったが、暮らしてみると、この土地には静かに積み重なった時間の層があることに気づかされる。新しい住宅が並ぶ一方で、地名や神社、わずかな旧道の曲がりに、古代からの記憶が息づいている。
とりわけ「曰佐(おさ)」という地名は、私の心を強く捉えた。地名としての初出は平安中期の辞書『和名類聚抄』で、筑前国那珂郡の一郷として「曰佐郷」と記されている。江戸期の『筑前国続風土記付録』にも「曰佐村」として登場し、那珂川流域の古い集落として位置づけられていた。地名の由来は「曰く(話し)を佐(助ける)=オサ(通訳)」の意味で、この地が大宰府政庁と鴻臚館を結ぶ官道西門ルートの中間に位置することを考えると、腑に落ちる。ちなみに古代の大宰府官道西門ルートは15キロ、鴻臚館から曰佐までは7.5キロとちょうど中間地点である。外国使節が往来した道筋に、通訳や渡来系の人々が住んでいたのは自然ななりゆきだと思う。
一方で、地名よりはるかに古い時代の痕跡も、この土地は秘めている。外環状道路建設に伴う発掘調査では、縄文期の土器や石器が出土し、この地域には6000年前から人が住んでいたことが確認されている。この地域そのものが長い居住の歴史を持つことは確かだ。現代の住宅地の下に、これほど長い時間が積み重なっているとは、移住前には想像もしなかった。
曰佐地区には「藤」という苗字の家が28軒もあるという。全国的に見ても珍しい単独姓だが、由来をたどると藤原氏の派生姓である可能性が高い。古代に官道沿いに配置された一族が土着し、農村としての営みを続けながら、近世・近代を経て現代まで受け継がれてきたのだろう。藤姓の多さは、この地が単なる農村ではなく、交通と交流の要衝であったことを物語っている。
そんな歴史を抱えた地域に暮らす者として、昨年のニュースには複雑な思いを抱いた。太宰府天満宮を中心とする「古代日本の西の都」を構成する七市町が、日本遺産の認定を取り消されたのである。理由は「歴史遺産をめぐるルート整備などの取り組み不足」。しかし、年間240万人(令和6年)もの観光客が訪れる太宰府市などは、福岡県と他の6市町と協議して再申請をしないと決めた。
観光都市としての自信と誇りは理解できる。だが、官道の痕跡が残る地域に暮らす者にとっては、どこか取り残されたような気持ちにもなる。太宰府天満宮だけが歴史の主役ではない。周辺には白村江の戦い(西暦663年)の敗戦後、防衛のために築かれた水城などもある。鴻臚館から大宰府政庁に向かう使節が通り、通訳が住み、千年以上の歴史を刻んだ曰佐のような場所にも、確かな光を当てるべきだと思うのだ。
天神から横手へ移り住んだことで、私は思いがけず「土地の記憶」と向き合うようになった。新しい住まいに馴染むほどに、むしろ古い歴史が身近に感じられる。曰佐という地名に込められた時間の深さは、移住者である私にとって、この土地とつながるための大切な手がかりになっている。(3月26日)
