投稿者:菅野 光公

 突然、まさに突然川崎隆生君が逝ってしまった。こんな喪失感は、初めての経験だ。青春時代を共有した親友の死は、すでに何度か経験した。この時の喪失感は「過去を共有した者」との別れから来たものだ。川崎君とは、これから同志になる予定だったのに・・・
 私は、1983年から1986年まで石油会社の広報マンで、この3年間川崎君と仕事上の交遊があり、北海道のエネルギー施設(製油所・石油備蓄基地・発電所など)取材などにも、一緒に行った。川崎君は当時“エネルギー記者会”所属記者だった。私が、広報マンから営業マンに戻ってからも交遊は続いた。私が会社員から大学教授に転職後も、約20年間、年賀状交換をお互い欠かしたことは無かった。
 2021年の1月、私がこれまでの「はがき年賀状」を止めて、長文の「封書年賀状」に改める旨、約300人に通知した時、たった1通だけその変更を歓迎するお便りが来た。長文の手書きだった。差出人欄には「川崎隆生」とあり、折り返し、長文の手書き返信を私は送った。次の便りが直ぐに届いて、『福岡ペンクラブ』 設立の熱い思いが綴られていた。賛同の気持ちを、長い文に託してまた返信。わずか3か月間に、数通の手紙が福岡と横浜を行き交った。私にとって、22歳の時の本格的大恋愛以来の、心躍るレター交換だった。
 4月8日には、電話で30分以上長話した。その日私は、書庫兼避暑用の比叡山(滋賀県・琵琶湖が見える)山小屋に滞在中だったので、今居る場所の話をポロリと漏らすと 「ウワ―行きたい。今すぐにも・・・・・」 と川崎君。「いつでも、何日でもタダだよ」と私。これは社交辞令ではなく 「そうだ、次の8月16日京都大文字送り火に招待しよう」と、私は心の中でつぶやいていたのだ。私の山小屋からは、1時間ほどの徒歩で、送り火の火床まで行ける。 超穴場も知っている。
 彼の訃報は、新聞記事で知った。なぜか訃報に目が吸い寄せられた。茫然自失。横にいた妻が 「せっかく福岡に恋人が出来たばかりなのにネ・・・」と共感してくれた。 「いや、恋人ではなく同志だよ。同志喪失だ。ロシア語でタワーリシチ」
 今年の夏は、蜩(ひぐらし)の泣き声が胸に突き刺さるだろう。
 蜩に胸かきむしられる隆生の死(光公)(7月28日)