投稿者:古賀 晄

 大学時代以来の友で元読売新聞記者、井上茂君が1月5日に旅立った。年末に80歳の誕生日を迎えたばかりでわずか8日間の傘寿だった。彼は骨髄腫などを引き起こす難病を患っていた。ある病院の広報顧問を務めていた10年ほど前、「難しい病気にかかった。専門医か治療できる病院を探している」と電話があった。医師たちに尋ねて回り、ネットや文献を調べたが力になれなかった。
 この疾患は何年もかけて少しずつ全身を蝕んでいく。次第に歩行困難になり杖にすがって資料を集めて2018年2月に1冊の本を上梓した。ヤクルト創業者で初代社長永松昇の伝記である。
 北九州市に生まれ育った井上君は同市若松区出身の永松がヤクルトの創業者だと知っていた。しかしヤクルト本社沿革年表(2013年当時)にも名前が登場しないことに「意識的な排除」を感じたのが取材のきっかけだと「あとがき」に記している。その後に発行されたヤクルト75年史には創業者と明記されてはいるが、事業拡大に功績があった3代目社長松園尚巳氏が創業者と信じている人が多い。病を押しての取材と執筆だから時間がかった。タイトルは「時知りてこそーーヤクルト創業者永松昇」。表題は細川ガラシャ夫人の辞世の歌「散りぬべき時知りてこそ花は花なれ人は人なれ」から引用したそうだが、わが身の「散りぬべき時」を重ねたのではないかとも思う。
 井上君とは西南学院大学の男声合唱団グリークラブ同期生だった。男声4部編成の中で私はトップテナー、彼はベース。当時、全国合唱コンクールで上位入賞を続けていただけに練習と規律は体育会系並みに厳しく、合宿所の裏で泣いたこともある。その分、同期生の絆は卒業後も強く、この本を仲間とともにOB会総会などで売りまくった。
 読売新聞西部本社の記者としては彼が先に合格した。留年した私は1年遅れの入社だ。「君が受かったんだから、僕も受かるだろう」と肩の力を抜いて受験したのがよかった。その時の役員面接でこんなことがあった。「なぜ新聞記者になりたいのか」と聞かれて「ネクタイを締めないでいいからです」と斜に構えて答えた。「新聞記者だってネクタイはするぞ」「いえ、心の持ちようです。権威に組せず常に野にあって世の中を見たいという意味です」などと生意気なもの言いがなぜか気に入られたらしい。
 在職中、ともに机を並べる機会は一度もなかったが、少し偏屈で正義感が強かったのは知っている。定年退職後にグリークラブ同期会で酒を飲み、合唱し語り合って再び心を開いて話す仲になった。
 死去から1か月後、グリークラブ同期生3人で北九州市の自宅を訪ね、祭壇の遺骨の前で「はるかな友に」を合唱した。定期演奏会のフィナーレでよく歌った男声合唱団の愛唱歌である。
 夫人によると、続編を書こうとしていたそうだ。パソコン操作に難儀しながらも、好きなモーツァルトのCDを聴きながら懸命に執筆を続けていたが、ついに力尽きた。最後まで音楽を愛し新聞記者であろうとした井上君は、「はるかな友に」になった。 (2月20日)