投稿者:古賀 晄

 筑後平野を潤す筑後川の流れがゆるやかに曲がるあたりの台地に、かつて東洋一を誇った旧陸軍大刀洗飛行場があった。戦後、その跡地に鍬一本で入植した73戸の家族がいた。南太平洋の諸島から身一つで引き揚げた家族、復員軍人がほとんどだった。航空隊復員兵の父と花形職業のタイピストだった母、農業とは縁のなかった両親は、汗と泥にまみれサツマイモを植え、集落で力を合わせて地下水をくみ上げ水田を拓いた。私が育ったのは、そんな開拓地の真ん中だった。土地に根を張るとはどういうことか。生き延びるとは何を意味するのか――その問いは、幼い頃から私の胸の奥に静かに沈んでいる。
 開拓地の近くにもう一つの“生き延びた集落”がある。300年もの間、弾圧を免れた福岡県三井郡大刀洗町今の潜伏キリシタン集落である。開拓地から南西約3kmの集落に赤煉瓦の双塔が見えた。それが今村天主堂(カトリック今村教会)だった。筑後平野の真ん中に、なぜ壮麗な教会が建っているのか。
 今村のキリシタンの歴史は、戦国期のキリシタン大名・大友宗麟の布教に始まる。久留米を居城とした小早川秀包(ひでかね)は宗麟の娘を妻としたキリシタン大名だった。そのため初期の布教が深く根付いて禁教令の後も地域社会に「キリシタンがいても不思議ではない」という空気が形成された。島原の乱以降は弾圧が強まったが、海に接した長崎や天草は宣教師の潜入を警戒して幕府の監視が非常に厳しかった。しかし、筑後平野は①海外との接点がない②島原の乱以後、大規模な摘発が少なかった③農村部には幕府の監視が届きにくかったのだ。
 さらに最大の特徴は、「村落共同体の結束が強く、密告しない相互扶助が徹底していたこと」。つまり平野部でも明治初期まで潜伏キリシタンが村落ぐるみで生き残れた理由は、「社会的な隠れ蓑」だった。仏教徒として振る舞い、宗門改めに適応しつつ、祈りを口伝で継承していた。祈祷文はラテン語やポルトガル語の響きを残し、意味より“音”を守ることが重んじられた。十字を刻んだ小石や木片は、生活道具に紛れて隠された。墓石には、丸に十字を暗示する印が刻まれたものもある。
 幕末から明治元年にかけて長崎市浦上の信徒とひそかな交流が始まり、一部の信徒が捕縛されて苛烈な拷問を受けた。諸外国が信徒弾圧を抗議したことで1873年(明治6年)2月24日に禁教令が解かれ、村人たちは300年の沈黙を破って信仰を告白した。その数は実に7200人にのぼったという。
 明治、大正期に五島や天草などで天主堂建設にかかわった鉄川与助の設計で1913年(大正2年)、今村天主堂が完成した。国指定の重要文化財である天主堂の内部を一度だけ見学したことがある。正面に八角形の双塔、赤レンガ造りの本堂は高いリブ・ヴォールト天井、フランス製ステンドグラスの柔らかい光が礼拝堂の内部を照らしていた。 2022年から天主堂は10年がかりで大規模修復中だ。赤煉瓦一つひとつを積み直して、百年先に手渡す改修費は37億円にのぼるという。
 地域の人々は、かつて潜伏キリシタンがそうしたように、静かにこの場所を守り続けている。開拓地で生き延びた家族の記憶と、平野の真ん中で祈りを守り抜いた今村の人々の歴史は、時代も理由も違うが、どこか深いところで響き合う。土地に根を張るとは、そこに刻まれた記憶を受け継ぎ、未来へ手渡すことだ。今村天主堂は、その静かな証人である。(5月26日)