投稿者:古賀 晄

 福岡大学病院(福岡市城南区)を受診したついでに、久々に「七隈四つ角」にある大衆食堂「わたなべ」を訪ねた。名物は「チョモランマちゃんぽん」。麺は2玉、ちくわ、かまぼこ、キャベツにモヤシ、豚肉などを炒めた具材がうず高く盛り付けられ、その高さは20㎝を超す。すっきりした若鳥の白湯スープがうまい。
 1975年に渡辺呈義さんが脱サラして開店した。学生数約2万8千人と西日本最大の福岡大学周辺には親元を離れてアパート暮らしの学生が多かった。「食べ盛りの大学生に野菜をいっぱい食べさせたい」と具材大盛りのちゃんぽんを出したところ大人気になった。さらにリクエストに応えて具材をどんどん増やしているうちに現在のサイズになったとか。1979年ごろ、世界最高峰のエベレスト(チベット語でチョモランマ。8,848m)登頂を目指していた福岡大学山岳会の1人が「チョモランマちゃんぽん」と名付けたのだそうだ。この由来を話してくれた創業者の渡辺さんは2023年に83歳で亡くなり、現在は孫の前川勇さんが鍋を振っている。私の胃袋ではチョモランマ征服は無理なので「並盛」を注文して、初代店主のスナップ写真に手を合わせた。
 渡辺さんは福岡大学病院外科病棟で1か月ほど共に過ごした“戦友”なのだ。新本館はまだ建設中で旧本館の病棟は薄暗い6人部屋。2011年3月11日の東日本大震災が起きたさ中だった。病室のテレビに繰り返し映し出される大津波と地震の惨状、被災者の人々の寒さと飢えに震える姿を見つめて息を呑むばかりだった。当時の病院食は美味しくないと評判がよくなかったが、「温かい食事があるだけましですなあ」「被災地を思うと文句言えんバイ」と言い合いながら配膳を受け取る日々だった。
 ある日、病室で事件が起きた。脳腫瘍の手術を待つ50代男性Tさんが深夜に姿を消したのだ。病院に知られると大騒動になる。同室の動ける患者が手分けして探し回り、別の病棟の階段下でむせび泣くTさんを見つけて連れ戻した。翌朝、年若い奥さんは長く美しい髪をばっさり切って来た。夫の手を握り「貴方が死ぬなら私も死にます。覚悟を決めて手術を受けてちょうだい」と迫った。「わかった」とTさんがうなずいた。同室の患者たちは笑顔で目配せしてふとんにもぐりこんだ。先に退院した私が術後検診の折りに病室に顔を出すと、Tさんは「中学校で吹奏楽をやっている一人息子の演奏会が楽しみ」と顔をほころばせた。
 初任地の長崎で駆け出し記者の頃、今でいうソウルフードの連載で私は「ちゃんぽん」を取材することになった。長崎市新地の江山楼で「特上」を注文すると、同じ齢の王国雄さん(現会長)から「ちゃんぽんのことを何も知らんね」と笑われた。「アワビやカキとか高級食材を使えばいくらでも美味しく作れる。ありきたりの具材で美味しく作るのがちゃんぽん」と教えられ、恥じ入ったのを思い出した。
 長崎ちゃんぽんは、明治中期に中国福建省出身の四海楼創業者である陳平順氏が考案したのだという。当時、長崎在住の中国人留学生は貧しかった。「安くて栄養価の高い食べ物を」と提供したのが始まりだそうだ。チョモランマちゃんぽんも「食べ盛りの学生に」との思いで生まれた。ちゃんぽんには「思いやり」という隠し味が利いているらしい。(2月4日)