投稿者:古賀 晄

 大学で英米文学を学んでいた頃、アメリカ人の先生が紹介したアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』原書版を買って、その文章に不思議な親しみを覚えた。短く、澄んだ文が、当時の私の英語力でもすっと胸に入ってきたからだ。余計な飾りを排し、ただ“見たこと”と“感じたこと”だけを置いていくような書き方。その潔さに、若い私は救われていたのだと思う。
 ところが、同じ授業で扱われたウィリアム・フォークナーはまったく違った。教材は『響きと怒り』だったが、長文でひとつの文がページをまたぎ、意識が枝分かれし、時間が前後に揺れ動く。辞書を引いても訳がわからず、レポート提出日は迫るばかり。机の前でただ途方に暮れた。あの苦い思い出は、今でも鮮明に残っている。
 それから年月が流れ、私は新聞記者になった。まず教えられた基本要素は5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、いかにして)だった。駆け出し記者の頃は、先輩について現場へ駆けつけ、取材メモ帳に見て聞いたことを書きなぐる。締め切りに追われる日々の中で、ふと気づいたことがある。私が自然と選んでいた書き方は、あの頃に親しんだヘミングウェイの文体に近かったのだ。
 事実をできるだけ正確に、簡潔に、余計な感情を挟まずに書く。読者に判断を委ねるために、説明をしすぎない。記者として教わった「そぎ落とす勇気」は、ヘミングウェイの “one true sentence” の思想とどこかで響き合っていた。
 新聞記事は、言葉を盛りすぎると真実が遠ざかることがある。逆に、削りすぎると温度が消えてしまう。そのぎりぎりの線を探りながら、私は何度も原稿を書き直した。ヘミングウェイは「ただ一つの真実な一文を書けばいい」(『移動祝祭日』)と言い、「書くことに特別なものはない。ただタイプライターの前に座り、血を流すだけだ」とも述べている。その“真実”とは、事実の羅列ではなく、書き手が責任をもって差し出す“核心”のことなのだと思う。そのためには“血を流す”ほどの消耗を伴う。このフレーズを胸に刻み、私は記者として核心を探し続けた。
 入社して3年目だった。長崎市出身の少年が関東地方で幼児を誘拐して殺した事件があった。「容疑者の家族の談話をとってこい」と指示され、探し当てた海辺の実家にいた母親は、涙ながらに少年の生い立ちをとつとつと語った。単独取材だったので、1時間近く話を聞いたが、書けたのは、「おばあちゃん思いの優しい子だったのに」のひと言だけだった。
 いま振り返ると、大学時代にフォークナーの文体に苦しんだことも、無駄ではなかった。彼の長大な文は、世界の複雑さや人間の意識の揺らぎを抱え込もうとする試みだった。私には読み解けなかったが、あの“濃密さ”があるからこそ、ヘミングウェイの“そぎ落とし”が際立つのだと、今なら分かる。
 新聞記者として学んだことは、結局のところ、ヘミングウェイに学んだところへ戻っていく。「真実に近づくために、余計なものを削る」。その姿勢は、文章だけでなく、生き方にも影響を与えている。
 あの殺人を犯した少年の母親のコメントは「あれでよかったのか」。
ヘミングウェイの言う “One true sentence” だったかどうか。今も迷っている。(6月5日)