投稿者:古賀 晄

 「親父が医療用献体を望んだ本当の思いはどこにあったのだろう?」
73歳で病死した父の33回忌を迎えた今も考え続けている。
 父が60歳を過ぎたころだった。「話があるから一度帰って来い」との電話で赴任先から実家に戻ると、唐突に献体の話しを切り出した。1970年代から医科大学が急増して医学生の解剖実習の遺体が足りないことを新聞で読んで献体を希望する決心をしたという。篤志解剖の会に登録するには家族の同意が必要なのだそうだ。
 「何も世の中の役に立っておらんからなあ」とボソリと最後につぶやいた。母と私たち兄弟は父の意思を尊重して同意し、父は久留米大学医学部の篤志献体団体「りんどう会」に登録した。
 現在は葬儀後に大学側が遺体を引き取ることになっているが、1989年当時は、死後ただちに引き渡すことになっていた。大学医学部の車が父の遺体を迎えに来た時だった。
 献体に同意していたはずの母が「(遺体がなくては)通夜も葬式もできないじゃない!」と言いつのった。普段は無口な母の激しい異議に驚いた私と弟は、父の頭髪を少し切り取って遺骨箱に収め、母に無理やり承知させた。遺骨が戻ったのは3年後。いまは母と同じ墓に眠っている。「りんどう会」の篤志献体者慰霊祭には私が一度だけ参列した。
 父は実直で平凡に生きただけのようにみえた。父の齢を追い越した今、父がつぶやいた「何も世の中の役に立っておらんからなあ」の意味を知りたいという思いが募っている。
 大刀洗飛行場(福岡県朝倉市)の陸軍航空隊に配属され1939年のノモンハン事件(ソ連と日本軍の衝突)に従軍した。妻子を残して2度目の応召、飛行部隊の一員として北朝鮮の平壌に駐留、シベリアに抑留される寸前に帰還を果たした。だが、それ以外に父から戦争体験を聞いた記憶はほとんどない。
 戦後は、大刀洗飛行場跡地の荒れ地を開拓した。慣れない農業では妻子を養えないので駐留米軍基地に就職、半勤半農で食いつないだ一生だった。
 「本当は絵描きになりたかった」と一度だけ話した父は晩年、何かにとりつかれたように仏像の木彫りに凝っていた。その背中は、多くの戦友を亡くして抑留をも免れた自分を「運が良かったと喜ぶべきではない」と語っているようだった。
 「お国のために命を捧げよ」と叩き込まれた時代の庶民の1人である。父は「自分の身体を捧げること」を献体によって実行したかったように思える。戦争とは、生き残った一兵士が「世の中(国)のお役に立たなかったという悔恨や負い目」を死ぬまで引きずって生きねばならないものなのだろうか。(2月6日)