投稿者:古賀 晄
「無冠の帝王」「社会の木鐸」は、今や死語あるいは半死半生語。かつて新聞が情報界の主役だった時代の矜持とされたが、若い現役新聞記者は聞いたことさえないかも知れない。手放せない1冊がある。半世紀も前に出版された「鶴崎日記」。日記の主は熊本日日新聞福岡支社で事件記者だった鶴崎福生さんである。定年退職して間もない昭和45年2月に病没、福岡県警記者クラブのライバル紙やテレビ記者たちによる鶴崎日記刊行会が47年2月7日に出版した。
私は昭和43年に読売新聞西部本社に入社したが鶴崎記者と面識はない。先輩から「こういう新聞記者の生きざまもある」と、この日記をいただいた。ハードカバーで箱入りの立派な仕様には、日記の出版に込めた敬愛の情が偲ばれる。
日記は昭和28年元旦から昭和45年1月29日の絶筆まで17年間にわたる。わずか数行の日もあるが、日記全体からは、酒を愛し家族を愛し記者という仕事を愛した1人の新聞記者像が浮かび上がって来る。
恐らく日記には具体的な事件や取材の経緯などが記されていたと思われる。出版に際して編集した上野文雄氏(フクニチ新聞社)の配慮で報道や捜査内容に関わる部分は割愛されたと文脈から読み取れる。その欠片がいくつか残っている。県警刑事部長室へ喧嘩腰で乗り込んだ日もあれば、昭和39年10月15日付の日記では部下の不祥事で引責辞任する警察署長の心情に寄り添う眼差しが伝わってくる。
《不祥事とは、15日未明、福岡市中央区大手門付近で空き巣狙い未遂の男がパトロール中の若い警官2人から拳銃を奪い発砲、警官2人が負傷した。身柄を確保したら男も同じ管内の先輩警官という前代未聞の事件》
追悼文のエピソードからは「鶴崎福生」の凄さがさらに鮮明になる。告別式で福岡県警音楽隊が葬送の演奏をしたのだ。警察幹部でも新聞社の役員・管理職でもなく、定年退職後に病没したタダの元サツ回り記者を送るためだから異例中の異例である。ある追悼文は、「イデオロギー的には不偏不党だったが、精神も風貌も根っからの国士型だった。」と鶴崎記者を表して「サラリーマン化してしまった現代の記者の姿勢と較べて正に感無量である」と述べている。
警察だけでなく政治家や財界人とも深い交流があったが、大樹に寄らず、忖度もせず、毅然と対峙しつつも取材先や同僚、ライバルの新聞、放送記者からも愛された「器の大きさ」が彷彿としてくる。
「時代が違う」と否定するのは容易だが、現代の報道人の矜持や使命感とはどんなものなのだろうか。自戒を込めてこの日記を読み返している。(日記には鶴崎氏のフルネームが見当たらない。熊本日日新聞社に問い合わせ、編集局読者・新聞学習センター「データベース班」で調べていただいた。感謝)(11月11日)