投稿者:古賀 晄
僕の右手には、何の痕跡もない。
けれど、そこには語られなかった記憶が、静かに眠っていた。
小学校一年生の春、僕は書道教室に通い始めた。祖父は西日本では書道の世界では名の知れた書家で、母とその姉妹も皆、筆を自在に操った。母は特に、流麗なかな文字が得意だった。そんな家に生まれた僕が、町で評判の教室に入門させられたのは、ある意味当然のことだった。
僕が育った開拓地では、習い事に通う子どもは珍しかった。正直なところ、友達とチャンバラごっこをして遊ぶ方が楽しかった。それでも教室に通い続け、作品を家族に見せると「やっぱり血筋だね」と褒められ、悪い気はしなかった。太宰府天満宮の書道大会で入賞したときは、十歳年上の叔母が付き添ってくれた。その帰り道、バスの中で彼女がぽつりとつぶやいた。
「よかったねぇ、右手にあんな大やけどをしたのに」
僕にはまったく覚えがなかった。「右手?なんともないよ、ホラッ」とグーとパーを繰り返して見せたが、叔母は困った顔をするばかりだった。
その言葉の意味が明らかになったのは、小学六年のある夜だった。酒に酔った父と母が激しく言い争い、父が大声で母をなじった。
「お前は、かんしゃく起こして沸騰したやかんを投げて、アキラに大やけどさせたろうが!」
父はすぐに「しまった」という顔をし、母はその場に泣き崩れた。
(僕の右手は、母のせいでやけどを?)
その疑問は胸に残ったままだった。親戚に尋ねても、誰もはっきりとは答えず、言葉を濁すばかり。高校三年になり、父と対等に話せるようになった頃、ついに問いただした。父は重い口を開いた。
僕がまだ赤ん坊だった太平洋戦争のさ中、陸軍航空隊の父の部隊が朝鮮半島へ転属になった。出発前に父が母に会いに実家を訪ねた日は、母の兄の戦死公報が届いた直後で、「夫まで戦地に向かう」と知って心の均衡を失っていた。突然、火鉢にかけてあったやかんを畳の上に投げつけ、その熱湯が僕の右手にかかったのだという。
父と祖母は僕を抱きかかえ電車とバスを乗り継いで、母の実家がある朝倉市宮野から約三十キロ離れた九州帝国大学病院へ駆け込んだ。父の実兄が皮膚科医として勤務していたからだ。適切な治療をしてくれたおかげで、右手には一切の痕跡が残らなかった。
この出来事は、父母両家の間で「堅い秘密」とされ、誰も語ろうとはしなかった。だからなのか、僕は母から叱られた記憶がほとんどなく、異常なほど甘やかされて育った。
大学では英文タイプの単位も取得し、新聞記者となってからも、手書き時代が終わるまで鉛筆で原稿を書き続けた。ワープロ、パソコンの時代になっても、右手は何の支障もなくキーボードを打ち続けてくれた。右手は僕の人生を支えてくれたのだ。
母が八十四歳で臨終を迎えたとき、僕は病室のソファで二晩泊まり込んだ。結婚前は花形タイピストだったという母の手は、指が長く上品だった。昏睡から覚めた母の手を握り、思い出を語り合っていると、突然、涙ぐんで「ごめんね、ごめんね」と、か細い声で何度もつぶやいた。
僕の右手に痕はなくとも、母の胸の奥には忘れることのできない熱いものが残っていたのだ。
僕の涙が静かに母の手に落ちた。(11月17日)
