投稿者:渕上 章

 私は、現役時代、読売新聞西部本社の記者として活動させていただきました。
 新聞記者を志したのは、高校時代(昭和30年代後半)でした。高校2年生のころ、生まれ育った福岡県久留米市で、暴力団の内部抗争事件が続発しました。その一つが、対立組員を射殺し、当時、肥料用として田んぼの片隅に設けられていた肥溜めに遺体を投げ棄てるという凄惨な事件が起きました。
 抗争事件も許せないが、遺体を肥溜めに投げ棄てるという、人としての尊厳を踏みにじる行為に憤慨し、「将来は、警察官か、新聞記者になろう」と決めました。
 私は、京都市の同志社大学文学部社会学科新聞学専攻に入学。大学では、アメリカから始まった「新聞学」という学問研究の歴史と将来展望について勉強しました。新聞記者になりたいという想いが一層強まり、生まれ故郷に近い、読売新聞西部本社にお世話になることになりました。
 最初の赴任地の大分支局で、私の記者人生を決定づける事件と遭遇しました。警察担当となり、記者4年目の昭和49年11月、大分県別府市の別府国際観光港に車ごと飛び込んで水没する車から自分だけ泳いで脱出。逃げ遅れた妻子3人を死亡させた「別府市の三億円保険金殺人事件」、いわゆる荒木虎美事件が起きました。これは、朝日新聞のスクープで、書いた記者は、Ⅿ君という私と同期入社の男性で、以後も、ライバルとして切磋琢磨し合った仲でした。
 事件取材を重ねるなか、当時、全国的にも有数の激戦地区といわれた福岡県警担当となり、福岡ペン倶楽部代表理事の岸本隆三さんとも同僚として肩を並べて仕事しました。
 新聞記者は、「抜かれて育つ」と言われます。私も、新人記者時代からデスク時代の三十数年の記者経験で、西日本新聞、朝日新聞、毎日新聞などに、よく抜かれてきました。それも、決まって新聞制作をしない休刊日付けを狙って特ダネをぶつけてこられたものです。朝も昼も夜もない生活を送り、慢性睡眠不足を強いられる事件記者にとって、これがとても痛いのです。
 「抜いた、抜かれた」は日常茶飯事いつものこと。私にとって、他社に抜かれた大事件というと、福岡刑務所で、受刑者が刑務官の目を盗み、秘かに散弾銃を密造していた事件(毎日新聞)、福岡県飯塚市の女児殺害事件(西日本新聞)。
逆に抜いたのは、福岡市の美容師殺害事件。この事件は、同市の美容院の女性事務員が、部下の女性美容師を殺害。自宅(?)の浴室で、遺体をバラバラに切断し、胴体と手足をレンタカーに載せ、熊本県阿蘇の原野に遺棄し、熊本駅のコインロッカーや九州自動車道のサービスエリアのごみ箱に捨てるなど遺棄した。被害者の頭部は、今も発見されていません。この事件は、猟奇的な事件として大きな話題となり、一部で、センセーショナルな報道がなされ、報道の自粛が叫ばれたりしました。
 この事件をきっかけに、新聞、テレビなどのメディアが過熱報道の反省に立ち、被疑者の女性に「容疑者」の呼称を付けるようになったと記憶しています。それまでは、各報道機関は、全国的に被疑者を呼び捨てにしていました。
 新聞、テレビの報道が大きな転機を迎えるきっかけとなった事件としても忘れることはできません。(6月28日)