投稿者:古賀 晄
小雪がちらつく寒い日、コンビニで温かい缶コーヒーと菓子パンなど数点を買った。私は電子決済しようとスマホをポケットから取り出そうとするが、着ぶくれているからもたついて焦った。客が少ないのも幸いだったが、レジの店員は辛抱強く待ってくれている。決済が終わると、持参した買い物袋に品物を手際よく入れてくれた。
常夏の国から来日したとみえる男性店員の気持ち良い接客態度に親しみが湧いて「今日は寒いね、日本は寒いでしょう?」と声をかけた。彼は「アハハ、僕の国はもっと寒いですよ」と、よどみない日本語で返した。「えっ、君の国は?」と聞き返すと、エベレストのふもとの村から来日したネパール人の技能実習生だという。「そりゃあ寒いだろうね!」とレジを挟んだ二人は大笑いした。
ヒマラヤ山脈南側に位置するネパールの国土は北海道の1.8倍、人口約3,000万人。標高によって気候が大きく異なるという。日本人観光客が多いこともあって地方都市でも日本語学校が増えている。厳しい経済状況のため若者が海外へ働きに出る傾向が強まっており、日本でもネパールからの技能実習生数は約27,400人と、国別ではベスト8位だ(2024年)。実習生に日本語を教えている友人によると、「ネパール人はまじめで勤勉、親切で思いやりがあるので、アルバイト先でも評判がすこぶる良い」そうだ。
レジの青年は20歳。1年前に技能実習生として来日、日本語学校に通いながらコンビニで働いているという。評判通りに明るくて他人を助けることが喜びだという国民性がうかがえた。
店が混んでいないようなので「岩村昇という医師を知っているか」と聞いてみた。「もちろんです。学校で習いました。首都カトマンズには記念碑もあります」と彼は胸を張って即答した。
岩村昇医師(2005年に78歳没)は、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から1962年に当時平均寿命37歳とされていたネパールに派遣された。史子夫人とともに18年間も結核やハンセン病、天然痘など伝染病の治療と予防に活躍した。献身的な医療活動が評価されアジアのノーベル賞と呼ばれる「マグサイサイ賞」を受賞、日本では「ネパールの赤ひげ」とも称された。キリスト教会に通っていた大学生の頃、岩村医師の呼びかけで始まった結核菌感染の判定に使うツベルクリンをネパールに送る運動を知り、少しばかり手伝ったことがある。
岩村医師の貢献を知っているネパールの青年に出会えたのを喜んでいた翌日(2025年2月20日)の朝刊で柴田紘一郎医師の訃報を知った。85歳だった。大分県出身で長崎大学医学部を卒業後、同大学熱帯医学研究所ケニア拠点に派遣され、リフトバレー州ナクルの州立総合病院などで医療活動に3年間従事した。長崎出身のさだまさしさんが柴田医師の活動を知って親交を深め、柴田医師をモデルに楽曲「風に立つライオン」を作った。その後、小説や映画にもなった。晩年は宮崎県立日南病院長などを経て2021年まで同県の介護老人保健施設長を務めていた。
私が所属していた医療ジャーナリスト団体で講演をお願いしたことがある。はるか彼方のケニアでのエピソードや地域医療のあり方をとつとつと語った柴田医師は猛々しいライオンというイメージはなく穏やかな人柄が強く印象に残っている。(3月6日)