投稿者:大矢 雅弘

 「からゆきさん」という言葉の真実を知っている人はどのくらいいるだろうか。明治から昭和のはじめにかけて、日本全国から海外に出稼ぎに行った人たちのことを意味する。とりわけ九州の島原半島(長崎県)や天草諸島(熊本県)の出身者が多かったといわれる。東京都在住の継田恵美さん(59)は、「からゆきさん」の本来の姿を広く伝えようと長年にわたり活動している。
 継田さんが「からゆきさん」を知ったきっかけは、作家、山崎朋子さん(故人)の「サンダカン八番娼館」だった。1972年に出版された同書は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、ベストセラーとなった。「サンダカン八番娼館 望郷」(熊井啓監督)として映画化もされている。同書の中で、山崎さんは「からゆきさん」を「外国人に肉体を鬻(ひさ)いだ海外売春婦を意味している」と書き、そのイメージが世間一般に定着した。
 作品を読んで強い衝撃を受けた継田さんは、その後も関連する書籍を読み漁るなど関心を持ち続けた。その結果、山崎さんが紹介した人物像は一部の限られた事例であり、違うとらえ方をした本や記事が数多くあることを知ったという。熊本県天草市の女性史研究家、大久保美喜子さん(70)との出会いも生まれた。「からゆきさん」を30年以上にわたり研究する大久保さんは「からゆきさんイコール海外売春婦」というイメージに違和感を持ち、「からゆきさん」の真実に迫ろうと調査研究を続けてきた。
 大久保さんは「からゆき」の語源について、「から」とは朝鮮や中国を指し、ひいては「海外」を指し、「からゆき」という言葉が生まれ、「海外へ出かけて行くこと」という意味が生まれたと考えられる、としている。
 天草を拠点に活躍した有識者の中には、継田さんや大久保さんと同様の見解を持つ人も少なからずいる。旧天草町(現天草市)教育長で郷土史家の浜名志松さん(故人)は「新・熊本の歴史7」(熊本日日新聞社)の中で、「明治初年から中国、シベリア、フィリピン、東南アジアに渡って産をなして故郷に錦を飾ったり、終戦まで現地で活躍した天草の男たちは多くの数にのぼっています」と指摘。
 そのうえで「からゆきさんと呼ばれる天草の女たちも、こうした青年たちの海外出稼ぎと軌を一にするもので、からゆきさんだけが一人歩きしたのではないということです。このことを見失ってはならないと思います。女たちも男同様に海外に出かけて金を稼ごうとしたのです。それが本当のからゆきさんの姿です。売春婦のからゆきさんだけが渡ったのではない。多くの青年男女が富の獲得のために陸続と故国を後に海外に渡っていった。その中に売春婦となった年若い女たちがいたということです」と述べている。
 ところが、「からゆきさん」は未だに海外売春婦としてのみ人々の記憶にとどまっているとみられる現実があるようだ。継田さんが情報発信をしているインターネットサイト「からゆきさんからの伝言」を読んだ人から、「男性の海外出稼ぎ者っていたんですか」と問われたことがある。継田さんは言葉を失うほどショックを受けたという。
 男性の「からゆきさん」の中には、輝かしい業績を残した人もいる。たとえば、現在の天草市天草町出身の松下光廣(1896~1982)はベトナム独立戦争にかかわり続けた実業家だ。松下は15歳で仏領インドシナと呼ばれた時代のベトナムに渡り、最盛期に9千人もの社員を抱えた総合商社「大南公司(だいなんこんす)」を一代で築き上げた。その足跡は500ページ近い労作「『安南王国』の夢~ベトナム独立を支援した日本人」(牧久著、ウェッジ)などでたどれる。
 広範な資料の収集に余念がない継田さんが最近、情報源として頼りにしているのが、スタンフォード大学フーバー研究所が公開する「邦字新聞デジタル・コレクション」だ。アメリカ大陸、アジアにおける海外在住の日本人や日系人が発行した228の戦前の邦字新聞113万ページ分の画像がオンラインで自由閲覧できるようになっている。新聞の画像はテキスト化され、検索もできる。
 継田さんがいま、精力を傾けているのは、「マレー半島のゴム園王」と称された笠田直吉(1851~1934)の足跡を記録に残すことだ。笠田の業績については、天草の郷土史家、北野典夫さん(故人)の「天草海外発展史」(葦書房)で紹介されているのがほぼ唯一とみられるという。今年4月、笠田の故郷である天草市天草町高浜地区を訪れた継田さんは、笠田の親族を知る人たちなどに取材し、笠田の功績をしのばせる大量の写真資料も発見した。
 継田さんは年内にも「南洋のゴム園王、笠田直吉の生涯」と題して一冊の本にまとめる予定だ。「『からゆきさんイコール売春婦』と誤って認識された言葉の誤解を解いていくことが、かつて海を渡っていった大勢の『からゆきさん』の尊厳を守ることになる」。そう語る継田さんの言葉を反すうしている。(6月10日)